大坂の陣で後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付け

 岡山県立博物館は、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと4日までに発表した。

 又兵衛は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛に仕えた後、京都で浪人生活を送り、大坂夏の陣の道明寺の戦いで、徳川方の大軍に囲まれ討ち死にしたとされる。

 見つかったのは「後藤又兵衛討死之時」とする文面。同館によると、腰に重傷を負った又兵衛は敵に自分の首を取られないよう、部下に自身の首を討たせたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」が使われていたことが初めて分かったという。

 また、秀頼に又兵衛の首を持参できなかったため、又兵衛の指物(刀か旗)の「かえり半月」を、討ち死にした証拠として秀頼に渡したことも記されていた。

 書き付けは縦27・4センチ、横35センチ。又兵衛の下で戦い、秀頼に又兵衛の討ち死にを報告したとみられる金万平右衛門の子孫宅で見つかった。

 九州大の福田千鶴教授(日本近世史)は「又兵衛が討ち死にする様子が克明に記された貴重な史料だ」と強調している。【共同】

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