【肖像】森永太一郎、35歳のころ

発売当初のミルクキャラメルの箱。現在とほとんど変わらない(伊万里市図書館所蔵)

森永太一郎が揮毫(きごう)した「終始一貫」の額を手にする伊万里小の子どもたち=伊万里市

明治33(1900)年4月に東京の赤坂に構えた店の前で、森永太一郎(右)が家族と一緒に収まった写真。英語の看板は当時、珍しかった(森永製菓提供)

■米国仕込みの量販戦略

 初めの2カ月は全く売れなかった。看板商品と見込んだマシュマロも「シャボン(石けん)くさい」と突き返された。明治32(1899)年の夏。森永太一郎は、大きなガラスケースに商品を陳列した特注の屋台を引きながら、東京都内の菓子屋を一軒一軒回った。

 森永は当時、34歳。米国で洋菓子の製法を習得し、東京・赤坂に構えた2坪の作業場を拠点に売り込みを掛けた。10年近く修業を積み、商品には自信があった。

 「ただ、商売はどう売るかが大切。炎天下に、伊万里で行商した少年時代を思い出したはずです」。伊万里での森永の足跡を研究している松尾清さん(76)=伊万里市=は推し量る。

■進む「脱亜入欧」

 伊万里で慶応元(1865)年に生まれた森永は、幼少期に父親を亡くし、叔父の山崎文左衛門に引き取られた。山崎は行商から身を起こして地元の有力な陶器商になった人物で、彼から商人としての基礎を学び、「勤勉」「誠実」といった心構えを教え込まれる。

 12歳のころ、「これを元手に商売をしてみろ」と50銭を渡され、こんにゃくの行商をした。てんびん棒を担いで振り売りをしながら、宣伝の重要さも知る。

 独り立ちした森永は23歳の時、焼き物を売り込むため米国へ渡る。結果は失敗に終わったものの、そこで洋菓子と出合った。

 日本でなじみの薄い洋菓子に目を付け、職人になって技術を身に付けようとした。当時の米国は人種差別が激しく、アジア人の労働力を脅威と捉えて排斥する動きが広がっていたが、生来の負けん気でとどまる。皿洗いなどをしながら修業に励み、さまざまな菓子の製法を習得していった。

 明治維新以降、日本では欧米の文化を取り入れて、近代化を進めようとする「脱亜入欧」の風潮が高まった。食文化も同様で、政治家や知識人が肉を食べたりミルクを飲んだりすることを奨励した。洋食が強い体をつくるという「富国強兵」の考えもあった。外国人の国内居住が自由になると、街に西洋料理屋ができ、そこから庶民に広がった。

 洋菓子も、森永が帰国したころから東京の有名菓子店に輸入品が並ぶようになり、日本人の舌にも次第になじむようになった。

 肉や乳製品と異なり、甘い菓子は江戸時代から庶民に親しまれていた。そうした中、2坪で始まった「森永西洋菓子製造所」の商品がヒットし、後に日本を代表する菓子メーカーに成長したのにはわけがある。

 森永は、海外から導入した製造機械の改良を重ね、量産化を進めた。大量の商品を売るため広告宣伝にも力を入れた。今でいうデザイナーやコピーライターを登用し、パッケージやポスターを工夫。新聞の全面広告や飛行機によるビラまきなど、世間を驚かせるキャンペーンを展開した。

■「終始一貫」の書

 こうした派手な動きを「正規の商法ではない」と白眼視する向きもあったが、広告がこれからの商売の要になることを、米国暮らしでよく分かっていた。

 成功を収めた森永は大正11(1922)年、現在の伊万里市大坪町に菓子原料用の練乳工場を開設する。その際、私財を投じて乳牛50頭を地域の希望者に提供し、酪農の発展に貢献した。故郷への恩返しだった。

 晩年には何度も伊万里を訪れ、世話になった人たちに直筆の書を贈っている。松尾さんらが3年前に調べたところ、座右の銘を揮毫(きごう)したものが多く、学校や個人宅などで十数点確認された。「終始一貫」。どんなに苦しくても、誠実さを貫くことが、自らを助ける。そんな思いが込められている。

 

=キリスト教の洗礼=

 森永太一郎は渡米から2年後の明治23(1890)年、キリスト教の洗礼を受けた。商売の挫折や人種差別などつらい日々を送る中、キリスト教の教えは心のよりどころになった。

 入信後すぐに帰国して伊万里で布教活動をしたが、相手にされず、断念して米国に戻った。新政府は明治6(1873)年、江戸初期から260年続いた禁教令を廃止していたが、キリスト教が社会に広く浸透するのは戦後、日本国憲法で信教の自由が認められてからになる。

 生涯を通じて熱心な信者だった森永。会社のロゴマークであるエンゼル(天使)は自身が考案したもので、菓子作りを通して人々に幸福や希望を届けたいという博愛精神が宿っている。

 

=森永太一郎の歩み=

1865(慶応元)年  伊万里の焼き物問屋の家に生まれる

1877(明治10)年 叔父の山崎文左衛門に引き取られ、商売の手ほどきを受ける

1888(明治21)年 焼き物を売り込むため米国に渡る。洋菓子と出合う

1890(明治23)年 キリスト教の洗礼を受ける

1899(明治32)年 帰国。東京赤坂に「森永西洋菓子製造所」を開く

1910(明治43)年 株式会社森永商店設立。初代社長となる

1922(大正11)年 伊万里に菓子原料用の練乳工場を造る

1937(昭和12)年 死去

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