黒田裕一さん

唐津城(手前)と唐津の市街地。最後の藩主・小笠原長国が戦火から守った=唐津市

山田洋さん

 「唐津藩に薩長が攻め入るらしい」。150年前の明治維新、そんなうわさがあった-。唐津市内で1月に開かれた二つの講演会で、新政府から「朝敵」とみなされた唐津藩の窮状が語られた。対応を誤れば、戊辰戦争の会津藩のように内戦の地になっていたかもしれないという指摘も。戦火から唐津城下を守ったのは、最後の藩主小笠原長国と石炭。講演者2人の言葉から当時の唐津藩の実情を読み解く。

 まずは唐津藩の立ち位置を知る必要がある。代々、徳川幕府を支える譜代大名が治め、幕末には老中として最後まで幕府を支えた小笠原長行(ながみち)を送り出していた。長行は唐津・小笠原初代藩主の長昌の長子だったが、幼い頃に父が病死。藩は養子を迎え、長行は藩主になれなかった。だが江戸藩邸で学び、頭角を現し、幕閣の中枢へ。この昇進、幕府への忠義が藩を追い詰めていく。

■伊万里に薩摩藩兵

 1868(慶応4)年1月、唐津藩にも鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗戦が伝わった。その後、唐津に採炭に来ていた薩摩藩士が、長崎にいた薩摩藩士約50人を大川野(伊万里市)に駐留させ、唐津藩に降伏開城を呼び掛けた。相知市民センターの黒田裕一・文化財担当係長(50)は「これは薩長の正式な命令というより、採炭に来ていた薩摩藩士の暴走的な命令だった」と解説した。

 朝廷の命令に従わないことに業を煮やし、2月には太政官の岩倉具視から「長行の切腹か、唐津での謹慎」が伝えられる。そのころには大川野の薩摩藩兵が150人ほどに増員。唐津攻めのうわさは広がり、福岡藩が警戒し、唐津藩との境に500人の兵士を派遣する事態にもなった。

 唐津攻めの風聞は、この時が初めてではない。2年前の第2次長州征討で長行は幕府軍を指揮し、敗れた。「この時、長州が唐津を焼き討ちにするといううわさがあった」と松浦史談会の山田洋会長(81)。下関で船を使う仕事をしていた神集島の清太郎という人物の「征伐になった場合は、松山(備中板倉藩)と唐津には必ず攻め入るとの話がある」との証言を史料から紹介した。

■直正が“助け船”

 話を戻すと、追い詰められた長国は、同世代ながら養子縁組を結んでいた長行と父子関係を絶ち、新政府に従うことを決めた。蒸気船で上洛する佐賀藩の鍋島直正に朝廷への取りなしを依頼し、長国も呼子港から同乗。賊軍にならぬように嘆願書の提出など必死の折衝を続けた。

 最後に、長国は旧幕府軍の征討で軍艦の燃料に不可欠だった石炭を五百万斤(3千トン)献上し、ようやく許された。黒田さんは「新政府はお金もないし、石炭もない。当時は関東で旧幕府軍が暴れ回り、この献上はありがたい話だった」、山田さんは「長国は唐津を戦火から守った。藩を滅ぼさないで済む手立てを取れた功績は大きい」と話す。

 黒田さんは旧大島邸でああった「耐恒寮講座」、山田さんは唐津ビジネスカレッジであった「からつ塾」で講演した。

 ■唐津藩の石炭 享保年間(1716~1736年)に唐津市北波多で農民が耕作中に偶然石炭を発見した。1817(文化14)年に唐津領43カ村が幕府領になると、営業許可金を払えば、他藩も唐津地方の幕府領内で石炭採掘ができるようになった。蒸気船の燃料として重んじられ、薩摩、熊本、久留米、佐賀の各藩が採掘場を借用。幕末・維新期には日本の生産量のおよそ3分の1を唐津炭田が占めたとの記録もある。

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