今年迎えた明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は牛津中(小城市)の2年2組です。

龍伸剛先生(後列左端)と2年2組の皆さん

 

藩主直正の先見性理解

 

【きょうの教材】反射炉建造の試練

嘉永3(1850)~安政6(1859)年

「さが維新前夜」2017年6月17日付より

 佐賀藩は嘉永3(1850)年、警備を担っていた長崎港周辺に台場を造り始め、同時に、その台場に据える鉄製大砲も自前で製造することを決めた。鉄製大砲を造るには、鉄鉱石から精製された鉄のかたまり(銑鉄)を溶かして鋳型に流し込む「鋳造」という方法をとるが、大量の鉄を一度に、しかも安定的に溶かすためには巨大な反射炉が必要だった。反射炉は燃焼室で発生した熱を炉内の天井などで反射させて溶解室に集め、金属を溶かす仕組み。当時の日本では、伊豆の韮山に幕府の代官江川英龍が造った小型の実験炉があるだけだった。 反射炉建設と鉄製大砲の製造は、藩士杉谷雍介らが翻訳したオランダの技術書を手がかりに進められた。炉に使う耐火れんがの原料になる土や、鋳型に用いる砂の種類など細かい部分が分からず、技術者らは長崎のオランダ商館長に教えを請うなど苦労を重ねた。 最初の反射炉は嘉永4(1851)年1月、現在の日新小学校(佐賀市長瀬町)敷地内に完成した。「築地反射炉」と呼ばれ、煙突の高さは16メートルほど。しかし、1回目の操業で溶かすことのできた鉄は、使用した銑鉄0.9㌧に対しわずか30キロだった。試行錯誤を重ね、5回目の操業から大砲の試験鋳造に踏み切ったものの、鉄の強度が弱く試射で砲身が破裂した。破裂はその後何度も発生し、けが人や死者を出すこともあった。 納得のいく大砲が完成したのは14回目の操業、嘉永5(1852)年5月のことだった。幕府からも大砲の注文があり、佐賀藩は「多布施反射炉」を増設した。操業期間は二つの炉合わせてわずか9年間だったが、その間に製造した鉄製大砲は135門。培った技術は後発の炉に移され、鉄製品大量生産の基礎となった。

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授業では、佐賀藩が建造した反射炉について、記事を書いた瀬戸記者が話した=小城市の牛津中

龍伸剛先生 幕末、日本に外国船が頻繁に来るようになって「日本が危ない」と思った四つの藩がありました。これらは後に「雄藩」となり、倒幕や明治維新の原動力になりました。佐賀藩もその一つで、藩主・鍋島直正を中心に反射炉、三重津海軍所といった「文化遺産」を生み出しました。「さが維新前夜」で佐賀藩の反射炉建造について書いた瀬戸健太郎記者の話を聞きます。

瀬戸健太郎記者 佐賀藩はなぜ反射炉を造ったのか。それは長崎警備という幕府からの任務があり、外国船が攻めてきた時に港を守るための「台場」を築き、そこに据える「大砲」も造ることになったからです。それまでの大砲は青銅製で、海上の外国船を攻撃するためには、砲弾を山なりに飛ばさねばなりません。なぜかと言うと火薬の力が弱いので、台場から水平に狙っても外国船まで届かず、砲弾が海に落ちてしまうからです。そこで、より威力のある砲弾を撃つには青銅よりも強度の高い鉄で大砲を造る必要が生まれ、その鉄を生産するために反射炉を建造しました。

授業の前半は、精錬方(せいれんかた)、三重津海軍所など、佐賀の文化遺産について調べたことを発表した

 最初に造ったのが「築地反射炉」です。初めは炉内の温度が上がらず、鉄がきちんと溶けないで、失敗ばかりでした。温度が上がらなかったのは、熱を反射させて1カ所に集中させるための仕組みがきちんとできていなかったから。また、温度が上がっても、炉のれんがが熱で溶けて鉄と混ざってしまうという失敗もありました。

 築地反射炉は、佐賀藩が長崎に配備する大砲を主に造り、後からできた「多布施反射炉」は幕府からの注文を受けるために、幕府が建造費を出すという条件で建てられました。築地で製造したのは20門でしたが、多布施では115門製造しています。 佐賀藩の反射炉は、二つ合わせても9年間しか操業していません。なぜか。それは幕府が、「鎖国」を続けて外国を追い払おうとするよりも、仲良くする「開国」に方針を変え、外国の船を警戒する必要がなくなったからです。

生徒1 鉄鉱石は日本では生産量が少ないのに、どうやって調達したの?瀬戸記者 大量生産したわけではないので、国内で採れる分で足りたのでは。佐賀藩は石見(島根県)産の物を使ったようです。あるいはオランダなどから輸入した可能性もあります。

生徒2 なぜ、佐賀藩がいち早く取り組んだの?瀬戸記者 長崎警備をしていて外国からの脅威に危機感を持ったこと、そして鍋島直正に先見性があったということだと思います。

生徒3 佐賀藩が造った大砲は実際に使われたの?瀬戸記者 長崎や江戸の台場に配備された分は、使われていません。軍艦に積まれた大砲は、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘となった箱館戦争で使われたと思います。龍先生 佐賀藩が明治維新に深く関わった雄藩になった理由の一つは、いち早く海外に目を向けた鍋島直正というリーダーがいたから。皆さんは、その「佐賀」の中学生であるわけですから、直正という人の業績をしっかり覚えておいてください。

【授業を聞いて・みんなの感想】

江口 裕真さん 授業では記者さんが質問に丁寧に答えてくださり、教科書に載っていないようなことも詳しく学習できた。例えば、佐賀が誇った反射炉は外国との関係の変化により、使う必要がなくなったということには大変おどろいた。また、他の「遺産」など佐賀には誇れるところが数多くあることも分かった。

野方 舞さん 外国勢力に対抗するために、鍋島直正が中心となり反射炉をつくったことを学んだ。大砲造りで使う鉄鉱石はどこから来ていたのか気になっていたが、質問することで、日本で採れる分と海外からの輸入の分でまかなっていたということが分かった。いつもは教科書を使って歴史について学んでいるが、実際に記者さんに話を聞ける貴重な授業だった。

 

【維新博 INFORMATION】

「鳥栖サテライト館」 ~革新の原動力、未来へのメッセージ~

 今年3月17日(土)から約10カ月間にわたって開催される「肥前さが幕末維新博覧会」。そのサテライト館のひとつとして、鳥栖プレミアム・アウトレットからほど近い中冨記念くすり博物館で展開されるのが「鳥栖サテライト館」です。 このサテライト館では、幕末維新期から革新を続け、今なお発展を続けている鳥栖の原動力となった人々のたゆまないチャレンジの歴史をひも解きます。 鳥栖市の一部が対馬藩田代領だったころ、多様な交流が生まれた歴史や、日本の四大売薬のひとつになるまで発展した田代売薬や、幕末維新期の佐賀藩の貴重な財源にもなった櫨蝋(はぜろう)栽培、交通の要衝としての発展を支えた鉄道など、産業の発展と広がりを映像や展示で紹介します。また、鉄道によって発展していく様子はプロジェクションマッピングで分かりやすく体感できます。 さらに、鳥栖らしさあふれるオリジナルのゲームを体験できるコーナーもあり、大人から子どもまで楽しめます。鳥栖をつくった人々のさまざまな思いにふれて、未来へのメッセージを感じてみませんか。どうぞご期待ください。

 

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