来年の明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は小城中(小城市)の2年3組です。

大庭佐和子先生(後列右端)と2年3組の皆さん

幕末の志士、小城からも

【きょうの教材】祇園太郎と名乗って 

安政5(1858)~慶応2(1866)年

「さが維新前夜」5月6日付より

古賀利渉が小城藩を脱藩する前に残したとされる和歌(小城市歴史資料館所蔵)

 安政5(1858)年8月、古賀利渉という若い庄屋が、小城郡西郷(現在の小城市小城町南西部)の屋敷から姿をくらまし脱藩した。利渉は庄屋ながら、小城藩の藩校興譲館で学んだ俊才。しかし、尊皇攘夷という過激な思想に染まっていた。

 嘉永6(1853)年の黒船来航以降、欧米列強を力で排除しようと考える攘夷論が国内で急速に広まりつつあった。当時の佐賀藩やその支藩である小城藩は、攘夷には慎重な立場だったため、声高に攘夷を唱えることは藩を批判することにつながる。切腹の勧告を受けた利渉は、脱藩を選んだ。利渉は3年ほど、京、大阪などで倒幕派の志士らとの交流を深め、その後は長崎に移った。長崎では他藩の情報を集めたとみられている。脱藩者という素性を隠すためか、この時期から「祇園太郎」という別名を使いはじめた。

古賀利渉の生家に近い禅寺、清浄院にある「祇園太郎の碑」=小城市小城町

 文久3(1863)年、京都にいた利渉は朝廷の信頼も厚く、攘夷の実行を各藩に促す勅使の随行を命じられて九州に向かった。しかし、体調を崩したため京都には戻らず、そのまま九州に留まった。佐賀藩で副島種臣らさまざまな人物と会い、近隣藩の有志とも会合を持ったと伝わるが、史料は残っていない。病状が悪化すると小城に戻り、慶応2(1866)年に亡くなった。

当時の佐賀藩家老の日記に「元大庄屋で亡命した祇園太郎が三百諸侯の情報を送ってくる」という意味の記述がある。小城郷土史研究会の岩松要輔会長は「志士としての活動とは別に、佐賀藩からの密命で情報収集役を担っていたのでは。脱藩の処罰を受けず、晩年に小城に戻れたことも説明がつく」と推察している。

 

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「祇園太郎」が脱藩した理由や、記事に出てくる「八月十八日の政変」の概要についてなど、いろんな質問が生徒から瀬戸記者に出された

大庭佐和子先生 幕末や明治維新で活躍した佐賀の代表的人物が「佐賀の七賢人」。10代藩主鍋島直正を中心に、刑法を整備した江藤新平、早稲田大学の創設者大隈重信、教育制度を作った大木喬任、外務卿を務め書家としても有名な副島種臣、北海道開拓の父と言われる島義勇、そして医療、産業、科学、軍事、政治など幅広い分野に足跡を残した佐野常民といった人たちです。この「七賢人」をはじめ、多くの佐賀人が貢献しましたが、実は小城にも幕末、新しい時代をつくろうと働いた人がいました。皆さんが記事で読んだ「祇園太郎」です。記事を書いた瀬戸記者の話を聞きます。

瀬戸健太郎記者 祇園太郎は本名古賀利渉。三里小学校近辺(小城市小城町栗原)の庄屋でした。安政5(1858)年、天皇を中心にした体制をつくり、外国人を追い払おうという「尊皇攘夷」を小城藩の方針にと献策し、反対勢力から切腹を迫られ脱藩します。大阪や京で志士らと交流を深め、次第に尊王攘夷派の公家と活動を共にするようになり、長崎にも行っています。長崎では他藩の情報を集めていたようです。

授業の前半は、佐野常民の業績について班ごとに調べたことを発表した

 文久3(1863)年の「八月十八日の政変」で、尊王攘夷派(長州藩とそれを支持する公家ら)が京を追放された後、体調を崩して佐賀に戻り、慶応2(1866)年、明治維新を見ずに亡くなります。志半ばだったと思います。墓は三里小近くの清浄院という寺にあり、子孫の人たちが市内にいるので、会えたら祇園太郎の話が聞けるかもしれません。

生徒1 切腹から逃れる以外に利渉が脱藩した理由は?

瀬戸記者 小城にいては尊皇攘夷が実行できないと考え、日本の将来を憂えて脱藩したのではないでしょうか。

生徒2 八月十八日の政変とは何ですか。

瀬戸記者 尊王攘夷派は、朝廷と幕府が協力して当時の体制を守ろうという「公武合体派」と対立していました。その公武合体派が尊王攘夷派を京から追い出した事件です。

生徒3 利渉はなぜ長崎で情報収集をしたのですか。

瀬戸記者 坂本龍馬が長崎で活躍したように、当時の先進的な考えを持つ人が大勢集まっていたし、開国されてから、外国の情報が一層得やすくなった場所でもあったからだと思います。

生徒4 利渉が脱藩したころ、佐賀藩が困っていたことはありますか。

瀬戸記者 安政5年は三重津海軍所ができた年。海軍を整備するためにばく大なお金が必要だったはずで、その工面が大変だったと思います。

大庭先生 きょうは、明治維新のころに佐賀の人たちがいろんな分野で貢献したこと、そして、教科書に出てくる有名な人以外にも、明治維新のために命をかけた人たちがいたことを学びました。皆さんはこのことを誇りにし、将来、この佐賀から日本をつくっていってほしいと思います。

【授業を聞いて・みんなの感想】

久富舞耶さん 「佐賀の七賢人」は知っていたけど、私たちが住んでいる小城にも、この時代に活躍した人がいることは知らなかった。祇園太郎を含め、佐賀県には今の日本の基礎をつくってくれた人が多くいることをもっと誇りに思いたい。そして、私たちも幕末・明治においてまだまだ知らないことがあると思うので、もっと勉強して、佐賀県の人はもちろん多くの人に、佐賀の偉人たちの功績を伝えていきたい。

野口貴矢さん 祇園太郎(古賀利渉)について瀬戸記者からいろんな話を聞いて、小城のことを誇りに思った。脱藩したら処罰されるような時代なのに、脱藩して名前を変えてまで尊皇攘夷に大いに貢献。さらに「八月十八日の政変」の後、病気になっても九州に留まって倒幕の願いをかなえようとした利渉の意志の強さはすごいと思った。

【維新博 INFORMATION】

「唐津サテライト館」 ~10代の若者たちが挑んだ明治のキセキ~

 来年3月17日(土)から約10カ月間にわたって開催される「肥前さが幕末維新博覧会」。そのサテライト会場のひとつとして、唐津市の旧唐津銀行で展開するのが「唐津サテライト館」です。このサテライト館では、幕末維新期の唐津を舞台に、キラ星のごとく輝きながら、たった1年半で消えた奇跡(キセキ)の学校「耐恒寮(たいこうりょう)」で学び、のちに日本の近代化に貢献した若き唐津の偉人たちがたどった軌跡(キセキ)を分かりやすく紹介します。

 見どころは、耐恒寮で学んだ若き唐津の偉人たちを魅力たっぷりの漫画キャラクターに仕立て、耐恒寮で実際にあったエピソードを紹介する映像作品や授業の様子を疑似体験できるコーナーなど。

 なぜ、わずか1年半しか存在しなかった耐恒寮から多くの偉人が生まれたのか。当時10代だった唐津の偉人たちは、耐恒寮で何を学び、何を目指していたのか。時代を突き動かすほどの激しいエネルギーの正体は何だったのでしょうか。今を生きる私たちの未来を紡ぐヒントが、そのキセキにあります。

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