多久市多久町大古場の草場家墓地。手前右側が佩川の墓

 慶応3年(1867)8月27日、草場佩川(はいせん)は佐賀の自宅で突然の嘔吐(おうと)と頭痛に見舞われました。駆けつけた医師は、長年の多忙と過労が原因と診断したといいます。

 佩川は51歳から佐賀藩校弘道館の教職をつとめ、69歳から老病のため何度も辞職を願い出ていましたが、十代藩主鍋島直正からの信任の厚さゆえ許されず、75歳でようやく隠居することができました。しかし、その後も直正・直大父子や支藩家・親類家・親類同格家の判読をつとめ、多忙な日々が続いていました。病床の佩川には直正・直大はじめ各家から差し入れの品々が引きも切らず、教え子たちが毎日2人ずつ北山金毘羅社へ参拝し病気平癒を祈願していましたが、同年10月28日夜、佩川は81歳の生涯を閉じました。

 佩川の遺体は30人ほどの人々が付き添って多久へ戻り、大古場(多久市多久町)に葬られました。多久家の家臣たちをはじめ、焼香に訪れる人は終日絶えることがなかったといいます。

 佩川墓の隣には妻佐与(仁志)、後方には次男仙客、長男船山、船山の三男金台の墓が並んでおり、草場佩川の会によって年に数回清掃が行われています。(志佐喜栄・多久市郷土資料館)

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