岩壁に刻まれた石仏群=唐津市相知町

 弘法大師・空海の歩いた足跡には伝説が付きまとうが、これほどまでに伝説が多い人物はまれであろう。全国津々浦々に空海伝説があり、その数300編を超えると言われている。そして唐津にもいくつかの空海伝説が残っている。

 そのうちの一つが肥前町高串にある渡錫(としゃく)の鼻(はな)。ここから空海が最澄らと共に第18回遣唐使留学生として唐に渡ったのは延暦23(804)年。この頃の遣唐使船は南路を採用し、五島列島から東シナ海を横断し、日本近海で対馬海流を横断して西進するルートであった。702年から838年までの航路である。

 そして相知町の鵜殿(うどの)石仏群だが、断層岩壁に彫刻された磨崖仏群である。もともとは大きな洞窟であり、かつてはその中に平等寺が建立されていたようだ。しかし寺は焼失し、今では石壁だけとなった。

 文禄3(1594)年の『鵜殿山平等院略縁起』によると、この石仏は空海が「漢土の霊窟にも劣るまじき法地なり」と彫刻したことが始まりとされている。唐からの帰途、ここに立ち寄り、弥陀、釈迦、観音の3体を彫ったという。残念ながらこの3体は現存せず、その真偽は分からないが、ここが真言密教の信仰の場であったことは間違いないようだ。

 最古の石仏は石仏群の中心となる十一面観音とその両脇の多聞天と持国天。その作風から南北朝時代のものと推定されている。その他、大日如来、不動明王など総数は58体。南北朝時代から江戸時代にかけてのものだ。勇壮な石仏群は当時の、松浦武将の心のよりどころ、文化の華だったとも言われている。

 歴史ファンにとって心躍る史跡ではないか。

たなか・まこと フリーの編集者で、民俗学、歴史を中心に編集・執筆活動を行う。1954年生まれ。唐津市桜馬場。

このエントリーをはてなブックマークに追加