講演する磯田道史氏

 「第2回鍋島直正公記念好生館シンポジウム」が12月2日、佐賀市のホテルニューオータニ佐賀で開かれた。第1部では、国際日本文化研究センターの磯田道史准教授が「幕末維新と佐賀藩」と題し講演。第2部では「幕末維新期に佐賀藩が果たした役割、そして好生館のこれからについて」をテーマに、パネルディスカッションが開かれた。磯田さんと公益財団法人鍋島報效会の富田紘次主任学芸員、佐賀県医療センター好生館の中川原章理事長がパネリスト、佐賀新聞社の中尾清一郎社長がコーディネーターを務めた。幕末の佐賀とこれからの佐賀、そして歴史を学ぶ意義を考えたシンポジウムの様子を伝える。

 

 

【講演】磯田道史氏国際日本文化研究センター 磯田道史氏

 

■蘭医学が主役の学校

 

 好生館は1834年(天保5年)に古賀朝陽(ちょうよう)がつくった。それを佐賀藩に献上したことによって始まる。もらった鍋島閑叟公(直正公)が好生館と名付けた。

 ここから佐賀にとって申し訳ない話。まず好生の出典は「好生の徳は、万人にあまねかし」。生命を大切にする徳が万人の心に行き渡るように、という中国の「書経」の言葉。でも実はこれ、まねている。

 米沢藩の上杉鷹山(ようざん)が、1793年に米沢の屋代町に好生堂というのを作っている。医学研究の学校で、オランダから高価な外科医療機械を購入して設備を充実し、米沢の医者の研修施設とした。全国的に有名で、好生館より40年くらい前にできている。

 おそらく直正は、これを念頭に置いていただろう。「(好生堂は)オランダ式の医学を伝えている。あの名前をもらおう、好生館にしよう」と。ここがポイント。佐賀結構、物まねです。しかし物まねができるから発展したと言っていい。

 しかし、鷹山もまねている。先生は肥後の領主細川重賢(しげかた)。重賢は1754年、熊本に再春館を作った。それを米沢藩がまねして、さらに佐賀がまねした。

 好生館が違ったのは、蘭医学が主役の学校になったこと。好生館は、日本教育史上の事件だったと思う。朱子学が主流な中、ずっと傍流だったオランダ医者が2代目のトップになった。

 古賀精里(せいり)ら古賀家三代の成果は大きい。蘭学を開くきっかけをつくった穀堂(こくどう)。弟の〓(人ベンに同)庵(どうあん)は日本外交の政策を立案し、〓庵の子謹一郎(きんいちろう)はロシアと外交をやっていた。実は江戸幕府がある程度現実的な外交ができたのは、古賀家のせいだとされている。

 古賀〓庵の門下から出た佐野常民、僕は大好き。佐賀藩はアームストロング砲を造ったけれども、同時に赤十字もつくった。そこに歴史の救いと人間の二面性を感じる。日本を植民地化されないためにアームストロング砲が佐賀で造られたが、戦いの悲惨さについてアームストロング砲を造った常民本人が考えていたことに、僕は感心している。

 これからの佐賀。これまで取り込み型で成功してきたが今後は、価値を創出してほしい。人工知能はルールが決まっていると強いが、目標や価値自体を創出するのは人間、よそにモデルがあるものをまねするより、価値そのものをつくってほしい。

 おそらく20年から30年以内に人間の労働のかなりの部分が機械に置き換わり、教育のあり方もがらっと変わるだろう。これまでは努力や記憶、これからは面白い発想などが重要になるだろう。他分野の知恵を導入、結合しないと革新はない。

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