童門冬二氏=東京・世田谷区の事務所

日新小学校の校庭に設置されている反射炉の復元模型(奥)と24ポンドカノン砲=佐賀市長瀬町

童門さんが執筆のために読み込んだ歴史資料=東京・世田谷区の事務所

 1年にわたって幕末期の佐賀の軌跡をたどってきた「さが維新前夜」。最終回は、数多くの歴史小説を手掛けてきた作家の童門冬二さん(90)をはじめ、明治維新史を研究する佛教大教授の青山忠正さん(67)、立命館大助教の奈良勝司さん(40)へのインタビューを通して幕末維新期を捉え直し、近代国家の形成にどのような影響を及ぼしたのかを考える。

 

 -日本の歴史の転換点といわれる幕末。ひとくくりには語れないさまざまな要素をはらんでいる。

 私は「第2の戦国時代」と捉えている。戦国時代の闘争の武器は刀、やり、鉄砲だったが、幕末は言論と思想。そして根底にあるのは、下克上の思想だ。下級武士など草(そう)莽(もう)が上の権力層を乗り越え、世論に従わない権力層を排除していった。特性として、坂本龍馬など組織から離れた人が殺されている。組織に残って、うまく立ち回った人が権力の中枢にも残った。

 そうした組織人が政権をつくったから組織の論理が働いてしまう。この論理による主導権争いは、今だに続いているともいえる。

 

 -混迷の時代に佐賀藩は藩政改革に臨んだ。

 松代藩士の佐久間象山という開明的な学者は幕末に、現代でいうところの「グローカリズム」を唱えていた。日本人は地方人であると同時に日本国民であり、国際人でもある。その三つの人格で構成されるべきという考え方だ。内外に危機が迫っていた幕末に難題と向き合うには、この視点が必要だと主張している。言われなくても実践していたのが佐賀藩といえる。

 佐賀藩の改革は、単なる財政再建やローカルに限ったものではなく、海の外にも目を向けた。国防では相当規模の科学研究所「精煉方(せいれんかた)」を設置し、武器に加え、軍艦や汽車の模型まで造った。10代藩主鍋島閑(かん)叟(そう)(直正)には陸軍も海軍も、藩レベルでなく日本全体の枠組みで取り組まなければ対処できないという発想があり、それであの規模の研究所を運営していた。

 

 -鍋島直正はリーダーとして多様な評価がある。

 閑叟は、幕府の昌平坂学問所の教官も務めた古賀精里の息子穀堂らを自身のブレーンに配置しながらも、義祭同盟のような一歩はみ出しているというか、急進的な集団も容認するような懐の深さがあった。

 「そうせい侯」と呼ばれた長州藩主の毛利敬親に似たところがある。どの家臣の意見にも異議を唱えず「そうせい」と言っていたため、部下に「事前に調整する」という気風が生まれ、それぞれで妥協案やミックス案を考える癖がつく。うまい管理方法だと思う。

 閑叟には、トップとして本気で責任を負うという態度があったのだろう。だから義祭同盟の面々も維新後は(閑叟と)一緒に手を組んでやっている。薩摩の西郷隆盛や大久保利通が藩主島津久光に対して取ったようなアンチな態度はない。君臣一体になっている。

 先を見極める目と決断力も閑叟は備えていた。長崎警護で培った感覚で、蘭学が必要とあれば蘭学導入に傾斜したし、国際語がオランダ語ではなく英語になると聞けば英学を奨励した。

 

 -佐賀藩は政治の表舞台になかなか出ようとしなかった。直正の政治姿勢は優柔不断ともいわれる。

 彼が思い描いた政治体制は、大名による共和制みたいなものだろう。いわば雄藩連合で、今でいうなら保革連合政権。徳川家も一大名の立場になるなら参加していいと。徳川幕府は「国民の政府」ではなく「徳川家の私政府」で、国民のための政府が必要だと考えていたと思う。この時、彼のぎりぎりの許容の限界が「幕府を倒さなくても改造で」というところだったのではないか。穏健な幕政改革を狙っていたといえる。

 こうした物差しで見ると、長州、薩摩、土佐の動きは自身の発想とはずれている。世の中の流れは何か違うという違和感。そうなると結局、黙らざるを得ない。それを脇から見ると、態度を決めないとか、はっきりしないと映ってしまう。

 ペリー来航時、老中筆頭だった阿部正弘が、海に領地が接している大名を幕府に集めようとした。薩摩、土佐、宇和島、仙台、福井、佐賀藩を頭に置いていた。阿部と島津斉彬が亡くなり「幻の内閣」になったが、実現していたら国内戦争はなくて済んだはずだ。

 

 -幕末維新期に佐賀ゆかりの人材が果たした役割は大きいとみている。

 功績の一つは、岩倉使節団が欧米に派遣されていた留守中の取り組みだ。学制改革や地租改正など、明治4~6年に政府が実施した改革のほとんどは、岩倉具視や大久保利通がいない間に考えている。太陽暦導入もそうだ。副島種臣や江藤新平ら佐賀の参議は留守組で全てに関わった。江藤が主導した民法典は、太平洋戦争後の占領政策を立案したGHQ(連合国軍総司令部)の士官が「これは変えなくてもいいのでは」と言うほど民主主義的な内容だった。佐賀藩で培われた精神性、先進性が映し出されていたといえる。

 

 -連載で幕末の軌跡をたどってきたが、よく分からない歴史もある。特に民衆に関する情報が少ない。

 安政の大獄で井伊直弼は、意見形成能力を持つ下級藩士らを殺してしまった。大獄後はそうした層が恐怖で出てこなくなり、下層の動きが見えにくくなった。

 民衆を付和雷同する群れだとみる向きがあるが、それは間違い。吉田松陰が言った草莽も、雑草ではなく、意見形成能力を持つ層とみるべき。その層の動きの拾い出しが必要だ。

 

 -個人の歩みを拾い出し、光を当てる作業が必要と考えている。

 知られていない民衆運動や個人の掘り起こしを地域でもやってほしい。「大河ドラマに出た」「うちにはこんな有名人がいる」だけではだめ。どこがどう偉くて、そのことを、今を生きる住民が地域おこしや活性化にどう生かしていくか。情報を発信し、さまざまな地域でフィードバックが活発に行われないと、歴史を振り返る意味がない。

 何かヒントを得て、新たなものを生み出そうというクリエーティブな光を当てて史実を活用し直す。そうした姿勢があってこそ歴史をたどる意味がある。

 

 

 どうもん・ふゆじ 1927年生まれ。本名・太田久行。東京都職員として知事秘書、政策室長などを歴任した後、52歳で退職し作家活動に専念する。1960年に『暗い川が手を叩く』が第43回芥川賞候補に。以降、歴史小説を中心に著書多数。主な著書に『小説 上杉鷹山』『田中久重』など。東京都目黒区在住。

 

 「さが維新前夜」は今回で終わり、来年1月6日からの土曜特集では、明治維新150年にちなんだ新企画を始めます。

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