明治維新の性格について語る佛教大の青山忠正教授

唐津城(手前)と唐津の市街地。譜代の小笠原氏が治めた唐津藩は「朝敵」と見なされ、新政府軍に加わった佐賀藩とは対照的な道を歩んだ=唐津市

佐賀城二の丸跡に立つ鍋島直正像。佐賀藩は直正の下で西洋の科学技術を取り入れ、近代化を推し進めた=佐賀市城内

 -来年は明治改元から150年。ここを節目とする考え方に異論を唱える。

 明治元年という年にあまり画期性はなく、明治2年6月の版籍奉還の意味の方が大きいと考えている。

 この時、藩が引き継いだ大名家の負債を最終的には政府が負い、大部分が事実上、踏み倒された。大名が約200年にわたって積み重ねた巨額の借金をリセットした。明治のゼロ年代にこうしたシステムの変更が行われたことが、明治維新の根幹だ。元年に何かががらりと変わったわけではない。単に節目で振り返るのではなく、事実を踏まえて歴史を見つめ直したい。

 

 -幕末維新期を「攪拌(かくはん)」「凝固」「造形」のプロセスになぞらえて捉えている。

 ペリー来航で卵が割れ、国内政治の混乱という形で攪拌が始まったが、凝固がなかなかうまくいかなかった。長州は攘夷、薩摩は雄藩連合という棒でかき回した。最終的には徳川慶喜が将軍になり、幕府の性格が変わったことで急に凝固が始まった。

 将軍と大名との主従関係は事実上解体し、大名が言うことを聞かなくなっていた。凝固には慶喜という「触媒」の存在が大きかったが、トライアンドエラー(試みと失敗)を積み重ねたことも明治維新にとっては重要だった。その後、明治政府の手で脱亜入欧、富国強兵という形で造形されていく。

 

 -歴史的な概念は、当時の言語や状況を基に理解すべきだと説く。

 いわゆる大政奉還は後に名付けられたもので、内実は「政権返上」だ。慶喜の上表文には、政権を「返す」ではなく「帰す」とある。これは政権を朝廷に一本化させるという意味にとれる。奉還(返し奉る)は天皇側に立った見方だ。

 「佐幕」と「倒幕」は歴史を単純化して説明するために用いられてきた。アヘン戦争での清の敗戦に代表されるアジアの国際環境の変化は、一般大衆まで周知の事実であり、日本国の在り方を改変していかざるを得ないことはすべての政治勢力が共有していた。諸藩で違いがあったとすれば、新体制を前提とした中での徳川家に対する距離の取り方だった。

 

 -戊辰戦争で薩摩、長州が勝利した結果、藩閥政治につながったという見方もある。

 勝敗が逆であったとしても、新政府のトップに旧幕府の人材が座り、現実の明治国家と同じような体制になっただろう。薩長が勝利したことが、明治維新の在り方を根本的に決めたわけではない。世界情勢が大きく変化する中で、国家の運営システムを組み替えることが求められていた。新しい政権はなるべき形になったといえる。

 明治維新が持つ意味は「日本国」ができたということに収れんされると思う。そして侍も百姓も皆、国民になった。いや応なく全員が参加する形で、明治維新という大きな変化がもたらされた。

 

 

 あおやま・ただまさ 1950年生まれ。東北大文学部卒、同大大学院博士課程修了。同大助手、大阪商業大助教授などを経て、1999年から現職。大政奉還前後の政治史を中心に、明治維新史を幅広く研究する。著書に『明治維新を読みなおす』など。京都府木津川市在住。

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