古賀〓庵が幕府官僚に与えた影響について語る奈良勝司助教

徳川慶喜が諸藩の重臣を集め、大政奉還を諮問した二条城。幕末の政局は京都が中心になった=京都市中京区

フェートン号事件が起きた長崎港。佐賀藩は長崎警備を通じて西洋列強の脅威と向き合った=長崎県長崎市

 -佐賀藩の藩政改革を提言した古賀穀堂(こくどう)の弟で、父精里(せいり)、息子茶渓(さけい)とともに幕府の昌平坂学問所の儒官を務めた古賀〓庵(とうあん)を研究している。

 〓庵は昌平坂学問所の最高幹部の一人として19世紀前半、強い影響力を持った。彼の主張の特徴は国家間の優劣を否定したこと。多くの儒者は日本優越主義だったが、彼は違った。西洋を認め、中国の自国中心主義を批判しつつ、日本も対等だと考えた。

 昌平坂学問所で〓庵らの教えを受けた幕府官僚を「積極開国派」と呼んでいる。彼らは攘夷派が反対した通商条約の締結に積極的だった。強大な軍事力を持っていても、発動するには条約違反という最低限の大義が必要なことを理解し、国際政治は暴力と契約の両輪で成り立つと考えた。唐津藩主名代を務め、幕閣にあった小笠原長行(ながみち)が生麦事件の賠償金を独断で支払ったのも、「約束を守らないと世界の信用を失う」という同様の思想に基づく。

 

 -儒学は保守的で、前近代的だとういうイメージを抱く現代人は多い。

 儒学には2本の柱がある。一つは主従関係や道徳を重視する「忠」や「孝」。もう一つは極めて合理主義的な側面で、森羅万象を理(ことわり)で筋道を立てて説明していく。西洋科学が伝わる以前には科学の役割も果たしていた。この儒学を進化させたのが古賀家3代であり、当時を代表する蔵書家だった〓庵は膨大な情報に基づいて情勢判断や世界観を更新していった。

 

 -江戸時代の日本を「自己完結の世界」と表現している。

 江戸時代の日本は、明治時代と同じような「国」だったとイメージされている。だが、近世は国というより一つの「世界」だった。外国の知識はあったが、その存在を考えずに暮らしていけた。他者(他国)を認識して初めて、自己(自国)とは何かが問われる。

 だから日本という国が、外国といかに付き合うかという発想自体がなかった。ペリー来航などによって初めて国としての振る舞いが求められ、これまでの「世界」を守るか、「国」をつくるかの選択を迫られた。

 

 -倒幕派の研究が中心になっている幕末政治史の中で、徳川政権に注目した。

 徳川政権の研究には「鏡」としての意味がある。維新政権そのものを対象にするだけでは大きな構造は見えてこない。自己完結の世界を国家に変えようとした〓庵らの提案を拒絶した点から、逆に維新政権の特徴が明らかになる。

 

 -結果的に積極開国派は敗れ、国家間の約束である「契約」という車輪を欠いたまま明治を迎えた。その後の対外関係にどんな影響を与えたのか。

 契約が信じられないまま開国すると、軍備強化でしか安心を取り戻せなくなる。維新政権をつくった人々の危機感は急速な近代化の原動力にもなったが、「やらなきゃやられる」という感覚が他国より強くなってしまった。

 自己完結の世界を清算することができず、外国を潜在的な仮想敵国として見る傾向が強くなった。その影響は第2次世界大戦にも及んだ。暴力という不安定な輪車を回転させ続けなければならない不安を抱え、東アジア全体を巻き込んだ対外膨張主義に発展した。

 〓庵は世界の全てを差配することはできないという、諦念とも呼べる意識を内在させていた。だが、今の日本人には、日本列島が「世界」だという感覚がまだ残っている。自国を特別視しなくてもアイデンティティーや自尊心は保てるということを、私たちは〓庵から学ぶべきだ。

※〓は人ベンに同

 

 なら・かつじ 1977年生まれ。立命館大文学部卒、同大大学院博士課程後期課程単位取得退学。2015年から現職。明治維新史、19世紀東アジア史が専門で、主に幕末期の徳川政権の政治過程を研究する。著書に『明治維新と世界認識体系』など。京都市在住。

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