佐賀藩10代藩主鍋島直正の遺骨が納められている鍋島墓所。11代藩主直大の墓(右)も並ぶ=佐賀市大和町

晩年の鍋島直正(鍋島報效会所蔵)

北海道開拓について鍋島直正が意見を述べた建白書(鍋島報效会所蔵)

 旧幕府からの脱走軍が蝦夷地を支配していた明治2(1869)年1月、薩摩、長州、土佐藩の重臣が極秘裏に京都に集まった。「円山会議」と呼ばれるこの会合で、3藩は版籍奉還を行うことで合意した。

 領地と領民を天皇に返還して中央集権化を進める版籍奉還は、諸大名から強い反発を招きかねない。実現には薩長土肥の4藩の力が必要とされた。佐賀藩も加わり、鍋島直大(なおひろ)ら藩主4人が署名して版籍奉還の上表文を提出した。

 このころ、佐賀藩では藩政改革が本格化した。前藩主鍋島直正は2月、政府高官になった副島種臣と江藤新平を伴って帰藩し、2人を中心に行政組織の改編などを推し進めた。版籍奉還は6月に実施され、直大は知事職の前身に当たる佐賀知藩事になった。

 直正はこのとき50代半ば。もともと胃が弱く、直大に藩主を譲って隠居してから下痢に悩まされていた。回復と体調悪化を繰り返す中で、議(ぎ)定(じょう)や北海道開拓使の初代長官などの要職に就いたが、病気を理由に明治2年8月までに議定や長官を辞した。それでもこの月、当時の武家では最高位の大納言に任命された。

 体調面に問題を抱えながらも、新政府から手腕を見込まれていた直正。徴古館(佐賀市)の主任学芸員富田紘次さん(36)は、直正の「一貫性」が評価につながったとみている。

 清が英国に敗れたアヘン戦争や米国のペリー来航によって、欧米列国の脅威に直面する中、直正は早くから「国体」や「独立」を守るように訴えてきた。ロシア南下への対抗策としての北海道開拓に関しても「わが国の全力を北海道に注ぎ込むよう決議をしてほしい」と建白した。

 直正は「そうしなければ外国による侵略の魂胆が具合の悪い方向に展開する可能性もあり、国体の上においても極めて懸念すべき事態である」と憂慮した。富田さんは「長崎警備で国防の重要性を痛感したことが、北海道開拓への積極的な姿勢につながった」とみている。

 ペリー来航以降、西欧列強とどう向き合うかを模索し続けたのが幕末という時代だったと言える。国際環境が変化し、国の在り方を変える必要に迫られているという認識は倒幕派、佐幕派を問わず広く共有されていた。それにもかかわらず、新たな国内体制づくりを巡って激しい主導権争いが繰り広げられた。

 独立を守るという大義から、直正が「国内戦争を避ける」という方針を導き出し、近代化を目指したのは自然な流れだった。外国に付け入る隙を与えないという意味では理にかなっていたはずだが、倒幕に突き進む薩長の考えとは相いれない。結局、日本は戊辰戦争という内戦に突入した。

 戦局では、さまざまな信条や思惑がせめぎ合い、明暗を分けた。有力な幕閣を輩出したため「朝敵」と見なされた譜代の唐津藩は、激論の末に新政府側に付くことを選んだ。新政府から標的にされた会津藩は籠城の末に降伏を余儀なくされた。武力倒幕という奔流にあらがい、戦闘回避のために力を尽くした勝海舟のような幕臣もいた。

 戦火から領地や領民を守る。主君への忠節を貫く-。それぞれが大義に突き動かされていた。幕末維新期は革命の側面もはらみながら、近代国家の形成に向けた転換点になっていく。

 明治3(1870)年の半ばから直正の病状は悪化し、8月には大納言を辞任した。翌月の参内が最後の出仕となり、年が明けると衰弱が進んだ。食事もままならない状況の中、天皇に天然痘予防の種痘を受けるように進言している。1月18日、58歳で永眠した。

 死去の1週間前、直大の西洋遊歴が決まったことを知った直正は「それで予は安心したり」と答えたという。海外渡航は、直正が抱き続けた夢だった。

 〈開けたる世のよき事をわか国へ 行う為めのつとめなりけり〉

 直大は、岩倉使節団の一員として欧米に出発する時の心情をこう詠んだ。未知の世界への好奇心は、明治を生きる次の世代に受け継がれ、新たな国づくりの原動力になっていった。

■無双の鍋島風

 佐賀藩主が交代する前年の万延元(1860)年、鍋島直正は16歳で家督を継ぐ直大に詩書を書き与えた。明治7(1874)年の佐賀の乱(佐賀戦争)で焼失したため、10年後に直大自身が筆を取り、同じ内容を書き起こしている。

 儒教を学び、武術に励み、道徳的な精神を伴うおおらかな気風を養えば、他家にはない「無双の鍋島風」が醸成される-。それが直正の教えだった。西洋文化を積極的に吸収したイメージが強い直正だが、藩主に必要な資質として伝統を重んじる人格を求めた。

 直大がこの詩を改めて書き起こした明治17年は、侯爵になった年に当たる。英国に8年間留学するなど豊富な海外経験を持つ身だからこそ、鍋島家当主としての原点を思い起こそうとしたのかもしれない。

【年表】

明治2年 1月(1869)薩長土肥4藩が版籍奉還を上表

 2月 副島種臣、江藤新平が帰藩し藩政改革に着手 

 6月 版籍奉還

 8月 鍋島直正が大納言に就任

明治4年 1月(1871)鍋島直正が死去

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