羽州戦争の戦いの跡を示した地図

 江戸から明治へ。この時代に起きた最後の内戦が150年前の戊辰戦争でした。約800人の武雄軍団はこの時、新政府軍として羽州(秋田・山形)方面に出兵、東北最強といわれた庄内軍と戦いました。

 1868(慶応4)年7月1日に武雄を出発した彼らは、途中、兵庫に寄港し、武雄領主鍋島茂昌は京都で天皇に拝謁(はいえつ)、官軍のしるしである錦の御旗、軍扇や盃を拝領。さらに約4500両(現在の4億5000万円)でチャーターしたイギリス船で秋田に上陸しました。空前の敵前上陸です。

 8月1日、久保田(秋田)に着いた軍団は、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督九条道隆から慰労の書状を賜りますが、同時に70キロ南方の平沢への出撃命令を得ました。最新の兵備を有する武雄軍団とはいえ、土地も不案内かつ猛烈な嵐に見舞われて敗退。この戦闘で樋口泉兵衛は大腿(だいたい)部を撃ち抜かれ、座ったままで敵と対戦しましたがついに首をはねられ、軍団初の戦死者となりました。

 さらに8月18日の久保田近郊の長浜の戦いで庄内軍が初めて敗退し、その後、茂昌が佐賀藩全軍3900人の指揮官に就任すると、戦況は新政府軍の優勢へと展開しました。

 9月末(今の暦で11月半ば)、庄内藩降服を受けて武雄軍団は凱旋(がいせん)を果たしました。けれども武雄軍団を苦しめた真の敵は無敵を誇る庄内軍だけではなく、奥羽鎮撫総督らの「無策」「無謀」、そして迫りくる寒さとの戦いでもあったのです。(武雄市図書館・歴史資料館 川副義敦)

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 武雄市図書館・歴史資料館では、特別企画展「明治150年 鍋島茂昌と羽州戦争」を17日まで開催しています。

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