「目だけで恋できる女がいるの」
 友人Mから聞く〝彼女〟のエピソードは、しょっぱなからブッ飛んでいた。当時、工場で働いていた彼女は、同じレーンにいる男性に恋をしていた。彼について知っている情報は、背格好以外には、帽子とマスクのあいだから見える目だけ。にもかかわらず、気づけば焦がれていたのだという。
 彼女は、Mが名古屋の出版社で働いていたときの同僚だ。私は面識すらないが、同じ年ということもあり、その特異なまでのときめきの才能に不思議な愛着を抱いてきた。
 現在39歳の彼女は、地元岐阜県で高校を卒業後、名古屋に出てアルバイトや派遣社員として職を転々としてきた。正社員経験はなく、職場職場で恋愛に明け暮れる日々。Mとの出会いは、彼女が29歳のときだ。恋愛談義で意気投合した2人は、よく飲みに出かけたという。
 「当時、彼女は5歳年下の別部署の男の子と付き合ってたの。ある日の仕事中、同じフロアにいるはずの彼女から携帯に着信があって――」
 Mはフロアを見渡したが、その姿はない。電話を取ると、動揺した様子で彼女は口を切った。
 「『今、家なの。彼から別れようっていうメールが来たから、携帯持って飛び出してきちゃったんだけど、私どうしたらいいの?』って」
 失恋のショックで混乱し、思わず職場放棄。しかも、電車で5駅の距離を走って帰ったらしい。この後、彼女は立ち直れずに転職。一方で、2人の親交は今も変わらずに続いている。
 彼女は重度の恋愛体質で、とにかく職場にいる誰かに必ずときめいているのだという。まともな相手もいるが、「大嫌いだったギャンブル狂の主任と飲みに行く機会が増え、主任の顔じゃない一面を発見するうちに放っておけなくなって彼氏に」だの「職場の先輩(既婚者)に誘われて山奥で陶芸をやっている仙人に会いにいっているうちに、先輩を好きになってしまった」だのという斜め上のエピソードにも事欠かない。
「そこまでして好きになりたい気持ちが私には理解できないんだよね。私がワーカホリックだとしたら、彼女は完全にラブホリックなの。仕事は生きるためのもので、やりがいを感じているわけじゃない。打ち込める趣味もない。仲のいい独身の友だちは東京に出ていて、地元の同級生は全員結婚して疎遠になってるし、職を転々とするから仲良くなる同僚もめったにいない。だから脳みそにすごい空き容量があって、そこをすべて恋愛で埋めようとしているんじゃないかなぁ……」
 しかし、ここ1年で彼女が変わったのだという。きっかけは、35歳のときにオープニングスタッフとして入った会社で、正社員の事務員として働き出したことだった。
 「1年前、職場の後輩に仕事を教えるのがうまくいかないっていう相談を受けたの。38歳まで誰かに教える立場になったことがなくてわからないんだって。彼女と知り合ってから10年、仕事の話を聞いたのなんて初めてだったから、ほんっっとに驚いた!」
 その職場は相当ブラックに近いグレーなのだが、他の人が辞めていく中で淡々と仕事を続けていた彼女は、気づけば頼りになるベテランになっていたらしい。そして、今年のこと。
 「先月、名古屋で会う約束してたんだけど、直前に『突然、岐阜出張になっちゃって』って連絡が来て。すぐ人が辞めちゃうから近隣の県にちょくちょくヘルプに行っているらしいんだよね。失恋して職場放棄して走って帰ったあの子が、不満はあれど頼られる存在として責任を果たす場所があることに感激しちゃってさ……なんか一人で泣いたよね。相変わらずときめきまくってるけど」
 最近は社用携帯にかかってくる後輩男子の愚痴電話にときめいてるらしいというエピソードに「さみしすぎかよ」とツッコんでから、Mは「やっと彼女が『自分の人生』をスタートさせた気がして、うれしいんだよね」と照れた顔をして笑った。
 人生の方向転換は、とても体力のいる仕事だ。ことに30代も半ばを過ぎれば、その決断が不安を解消すると知っていても、のらりくらりとやり過ごしたくなるし、変化が怖くて後回しにしてしまったりもする。だからこそ、自分の人生に向き合う彼女はとても果敢でまぶしくて、なんだかこちらまで泣けてくる。同じ年に40年目を重ねる彼女の近況は、今年もっとも勇気づけられたうれしいニュースなのだった。

有馬ゆえ(ありま・ゆえ)
1978年、東京生まれ。フリーライター。既婚。趣味は男女アイドルウォッチ。
 

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