6月2日、川副下郷鰡江村。6月5日、小城。6月13日、有田郷新村-。
 これは佐賀城下の開業医、松尾徳明(とくめい)が安政6(1859)年、佐賀藩で実施した種痘の記録だ。この年の4月、藩の医学校「好生館」で種痘普及を担う引痘方(いんとうかた)から、藩内を一巡して種痘をする「一順医師」に任命され、駆け回っている。
 初仕事は巡回の指示を受けた翌日の4月26日。現在の神埼郡吉野ケ里町に向かったとみられ、種痘をする場所と徳明の宿を兼ねて庄屋宅が用意された。地元の医師4人が作業を手伝い、ここで100人に種痘を施した。

 

 10年前の嘉永2(1849)年、オランダ商館医モーニッケを介して牛痘法が導入された当初、痘苗(とうびょう)(ワクチン)の保存方法は確立されておらず、人から人へと植え継ぐしかなかった。
 種痘は、特に死亡率が高かった小児を中心に実施された。牛痘を接種して2、3日で発疹が出て、7日前後で膿(うみ)を伴った水疱(すいほう)になる。7日目に合わせて種痘済みの子どもを移動させたり、対象児を集めたりする必要があり、地域の神社や寺などが種痘場所になった。
 佐賀藩での普及活動は当初、順調とは言えなかった。植え継いでいた痘苗が、途絶えてしまう事態が発生した。藩は嘉永3(1850)年10月、「痘苗伝来後、医師がめいめいに種痘を実施するようになったため、今年の夏以来、痘苗が断絶してしまった」と全域に非常事態を通達。医師の個人宅での接種を取りやめるように呼び掛けた。
 この佐賀本藩の危機を救ったのは支藩の小城藩だった。ここでは種痘が順調に続いていた。小城から接種済みの子ども2人の派遣を受けることで、種痘の再開にこぎ着けている。
 一順医師による巡回種痘の取り組みは、この出来事を教訓に翌年から始まった。安政5(1858)年には、この年に開設された好生館が痘苗を管理するようになり、接種人数を1回約50人に制限するなど断絶防止のための対策も講じた。
 くだんの松尾徳明は初仕事の前、自宅で痘苗を採取し、1週間後に村に向かっている。伝来から10年がたち、ガラス板で挟んで保存する方法が実用化されていたとみられる。受け入れる村では種痘場所の準備に加え、対象になる子どもたちの名簿がそろえられた。こうして計画的に接種できる態勢の下、徳明は1年2カ月の在任中、40村で1200人以上に種痘をした。
 モーニッケの痘苗は江戸にも渡った。安政5(1858)年には、伊東玄朴らを中心に江戸の蘭方医が出資して「お玉ケ池種痘所」を開設した。種痘の普及に貢献し、オランダ医学の教育機関へと発展していく。
 佐賀藩は医師の出張料や宿泊費を負担し、接種料も無料にしたが、こうした対応は異例のケースだった。医療史を研究する佐賀大学特命教授の青木歳幸さん(68)は「江戸時代は一般的に、藩が領民の医療対策に積極的に関与することはなかった」と指摘する。その上で「藩費による種痘普及活動は、近代の公的機関による地域防疫活動の先駆け」と評価する。
 国内では当初、牛痘法の効果は信じられていなかった。「頭に角が生える」というデマまで広まっていた。深瀬泰旦著『天然痘根絶史』によると、「植え継ぎの日には金品をあたえて子どもを集めるという苦心もあった」ほどだった。
 藩の後ろ盾が恐れを和らげ、心強くさせたのだろうか。佐賀藩では種痘を回避しようとする民衆の動きは見られない。徳明が巡回した小城では約450人が種痘を願い出ている。一順医師の働きで、立岩村(現在の伊万里市)では文久3(1863)年、対象の子ども全員の接種を終えた。

 

人脈と政治力で江戸に拠点

 「お玉ケ池種痘所」は、江戸の蘭方医のリーダー格だった伊東玄朴を中心に設立された。580両の資金は蘭方医83人が出資した。佐賀大学特命教授の青木歳幸さんは「江戸にいる蘭方医の主なメンバーと若手がほとんど参加しているといっても言い過ぎではない」と著書で指摘している。
 蘭方医の強力なネットワークに加え、玄朴の政治力も生かされた。種痘に関心を持っていた勘定奉行川路聖謨(としあきら)の屋敷を借りて種痘所にする願書を幕府に提出し、許可された。
 開設から半年後に火災に見舞われたものの、移転して活動を続け、万延元(1860)年には幕府直轄の施設になる。
 翌年には「西洋医学所」に改称し、西洋医学の教育機関としての役割を強化した。種痘所はこうして発展を続け、東京大学医学部のルーツになった。

【年表】
1849(嘉永2)オランダ商館医モーニッケが長崎に牛痘苗をもたらす
1850(嘉永3)佐賀藩の痘苗が一時断絶。小城藩の支援で種痘を再開
1858(安政5)好生館が開設。種痘事業を担う 江戸にお玉ケ池種痘所が設立される
1859(安政6)松尾徳明が一順医師に任命される

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