武雄隊が本陣を置いた忠専寺=秋田県秋田市

秋田での戦いで犠牲になった佐賀藩士が眠る葉隠墓苑について説明する菅原忠さん=秋田県秋田市

忠専寺の廊下には、武雄隊の武士が銃器の台座などを手入れした時についたという傷跡が残る=秋田県秋田市

 秋田市の中心部から車で10分、小高い丘の上に「葉隠墓苑」と名付けられた墓地がある。ここには戊辰戦争で秋田藩の援軍として戦い、命を落とした佐賀藩士3人が眠っている。

 墓は土地区画整理中に見つかり、3人の遺体は佐賀の方角に向けて葬られていたという。市民の手で整備された墓苑の碑には、秋田での戦闘で亡くなった佐賀藩士54人の名が刻まれ、慰霊祭が毎年執り行われている。

 「彼らは秋田を窮地から救ってくれた」。秋田歴史研究会会長の菅原忠さん(68)らが、こう語り継ぐ戦い。発端になった出来事は、慶応4(1868)年7月に起きた。

 新政府軍は、抵抗する庄内藩(現在の山形県)の征討を計画していた。奥羽鎮撫(ちんぶ)総督の九条道孝は7月に秋田藩を訪れ、征討の実行を求めた。同じ時期、仙台藩の使者も来訪し、奥羽越列藩同盟の団結を守るように訴えた。

 新政府軍側につくべきか、東北諸藩とのつながりを優先すべきか、秋田藩内の意見はまとまらない。苦肉の策で、藩の首脳が庄内藩との和平を九条に働きかけたが、逆に軍事行動を強く迫られる。これに刺激された藩内の過激派が仙台藩の使者を惨殺。秋田藩は後戻りできなくなり、列藩同盟からの離脱を宣言し、庄内へ征討軍を送った。

 列藩同盟を離れた秋田藩の判断について、秋田県立博物館学芸主事の畑中康博さん(48)は「このままでは未来はないと考えたのだろう」と分析する。会津藩が恭順の姿勢を示したにもかかわらず、薩長を主体とする新政府軍は討伐にこだわり、列藩同盟は行き詰まりつつあった。

 庄内藩は第2次長州征伐(長州戦争)での幕府軍の敗北を反面教師に軍備を拡充し、戊辰戦争勃発後は銃を積極的に購入していた。装備が旧式の秋田の軍勢を退けると、北進を始めた。

 状況を打開するため、新政府があてにしたのが佐賀藩だった。中でも、西洋砲術の導入を主導した武雄領主鍋島茂昌(しげはる)への期待は高かった。茂昌は京で天皇に拝謁(はいえつ)し、錦の御旗を授かる異例の対応を受けている。

 武雄隊約800人が船で秋田に到着した直後の8月上旬、庄内軍は秋田との藩境を突破した。現在の秋田県南部の平沢で庄内軍とぶつかった武雄隊は、不慣れな土地での戦いに苦しみ、激しい風雨で退却を余儀なくされた。庄内軍は勢いづき、秋田藩主佐竹氏の居城、久保田城を目指した。

 武雄隊はアームストロング砲など大砲10門を備えた兵力で対抗していく。茂昌は、武雄隊を含む佐賀藩の全軍約3900人の指揮官を任されていた。他藩からの増兵にも支えられ、持ちこたえていると、米沢、仙台藩など列藩同盟の諸藩が新政府軍に次々に降伏していった。孤立を深めた庄内軍は兵を引き、9月下旬、会津藩に続いて降伏した。

 「近代化を推し進めてきた佐賀藩にとって戊辰戦争は、蓄えてきた軍事力を試す場であると同時に、試される場でもあった」。武雄市図書館・歴史資料館の学芸員川副義敦さん(62)はこう話し、一連の戦いが新政府内での存在感を高めることにつながったとみる。

 畑中さんは秋田の側から見て、佐賀藩士の苦労を想像する。「秋田藩士とはお国言葉が異なり、会話が成立しなかったはず。当地の食事も口に合わなかったろう」。秋田での戦火が終息した時期は、新暦では11月に当たる。東北は本格的な冬の到来が間近で、武雄隊では感冒(インフルエンザ)が流行し、戦闘の早期終結が至上命題だった。

 畑中さんは戊辰戦争を「避けられた戦争」と捉えている。「日本を官軍と賊軍の二つに分け、相手を力で従わせる戦いに、秋田藩も佐賀藩も巻き込まれたともいえる。こうした戦争が近代国家の出発点になったことも忘れてはならない」

 東北諸藩が新政府に従ったことで、戊辰戦争は実質的に終結したが、旧幕府軍は蝦夷地に渡り、最後の抗戦を繰り広げる。

 

■大村益次郎の評価

 秋田での戦いを終えた武雄隊は東京に向かい、武雄領主鍋島茂昌は明治元(1868)年11月中旬、天皇に拝謁(はいえつ)した。戦いぶりは新政府内で高く評価されていた。長州藩出身の軍務官副知事大村益次郎は、新政府の官僚になっていた佐賀藩出身の島義勇に宛てた書状に記している。

 「上総殿(茂昌)が率いた兵隊はよほどの強兵であり、東京に引き止めるべきとの意見があった」

 武雄隊を政府護衛に当たらせようという思惑があり、帰路につく日程が延期された。それでも茂昌は帰国を願い出て、11月下旬に船で品川を出航した。武雄に帰還すると、武雄神社に参拝して勝ちどきを上げたという。

 

=年表=

慶応4年 7月(1868)秋田藩が仙台藩の使者を殺害し、奥羽越列藩同盟を離脱

     8月      武雄隊が船で秋田に到着

             庄内軍が秋田藩境を突破

明治元年 9月(1868)明治に改元

             庄内藩が降伏

    11月      鍋島茂昌が天皇に拝謁

             武雄隊が武雄に帰還

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