辰野金吾と曽禰達蔵の二人の建築家を語る門井慶喜さん=旧唐津銀行本店

 唐津出身の建築家辰野金吾をテーマにした作家門井慶喜さんの講演会(佐賀県主催)が25日、唐津市本町の旧唐津銀行本店であり、約100人が聴講した。門井さんは『家康、江戸を建てる』(2016年)などで直木賞候補となり、現在、電子文芸誌・別冊文藝春秋で辰野を描いた長編小説『空を拓く』を連載中。「唐津が日本の近代を建てた-辰野金吾とその時代-」の演題で語った。

 

 もともと僕は近代建築が好き。『プリンセス・トヨトミ』などを書かれた同世代の作家万城目学さんと明治以降の全国各地の洋館を見て回る企画があった。それが『ぼくらの近代建築デラックス!』(文春文庫)。どこに行っても辰野金吾の名前に出合い、感銘を受けた。興味が高じて今、辰野の小説を書いている。

 30年前までは辰野は今ほど知られていなかった。もっと言えば、近代建築自体が価値を持っていなかった。戦後にどんどん壊された。数が減ると、残ったものの価値は相対的に上がる。国民生活に余裕が出てきて、過去を振り返り、昔の建物でも豊かな建物があると認められるようになった。

 それで全国でリニューアルが進んだ。辰野が知られるようになり、臨界点が東京駅のリニューアル。日本の近代建築のシンボルとして辰野がクローズアップされてきた。これは今後も動かないだろう。それでも全国的な知名度はまだまだ。どう広げるか、次の文化的段階に来ていると思う。

 建築では「ゴシック様式」「ロマネスク様式」と使うが、「辰野式」のように人名は基本的にない。様式はみんなで寄ってたかってつくるもの。辰野式は赤レンガに白い石の横帯で、見た目に明確な特徴がある。誰が造っても辰野式になるのは様式というしかない。

 辰野は下級藩士で、おそらく明治まで唐津を出たことがなかった。一方、辰野と一緒に近代建築を引っ張った二つ年上の曽禰達蔵は藩のエリート。江戸藩邸で生まれ、小笠原長行(ながみち)の小姓になる。長行は幕閣に入って最後は今でいう総理大臣の老中になる。曽禰は明治が来るまで唐津にいなかったと思う。

 長行は最後の最後まで幕府の人として新政府に対抗した。唐津藩は負け組で明治をスタートし、その最たる者が曽禰。辰野はその間、唐津ですくすく育った。これが2人の人生に心理的な影響を与えた。

 その後、2人は唐津藩洋学校「耐恒寮」を経て上京。工部省の教育機関・工学寮(工部大学校)に入る。造家学(建築学)を辰野が1番、曽禰が2番で卒業。英国人建築家コンドルは曽禰の論文を高く評価していた。でも留学できる首席は辰野。なぜか。辰野は理想肌で、曽禰は現実的に考えるタイプ。これから始まる日本の近代建築をリードするのはどちらか、と考えたのではないか。

 曽禰は辰野ほど華々しい存在とは認められていない。建築も辰野に比べるとおとなしい。一つの建物をデザインで出そうとするよりも、街並みに合わせてしまう。だから曽禰の丸の内のビル街はいい。曽禰は現実から出発し、辰野は理想から出発した。その2人がここ唐津にいた。

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