会津軍が籠城した鶴ヶ城。天守は1965年に再建された=福島県会津若松市

小田山から見下ろす鶴ヶ城(中央)。佐賀藩のアームストロング砲はここから城を攻撃した=福島県会津若松市

 東北を中心とした諸藩で構成された「奥羽越列藩同盟」はもともと、佐幕派の中心だった会津藩(現在の福島県など)への寛大な処置を嘆願するために結成された。藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職として京の治安維持に当たった会津藩は、庄内藩(現在の山形県)とともに、薩長を軸とする新政府軍の標的になっていた。

 慶応4(1868)年3月、仙台、米沢の両藩は会津征討を新政府軍から命じられたが、東北では会津藩を擁護する声が広がっており、二の足を踏む。会津藩は恭順の姿勢を示し両藩に使者を派遣、諸藩も嘆願書を提出したが、ことごとく退けられる。

 会津に対する厳しい姿勢が「薩長の私怨から来ているのではないか」という疑念を東北諸藩は抱いていた。長州藩は八月十八日の政変で会津藩などから京を追われた。失地回復を狙った禁門の変でも撃退された。

 恨みによる私戦なら、会津征討に加わることはできない-。東北の名門である仙台、米沢の両藩はそう考え、会津救済と戦争回避を目指した。だが、5月に結成された列藩同盟は、越後諸藩も名を連ねる中で次第に性質を変えていった。

 福島県立博物館主任学芸員の阿部綾子さん(41)は「新政府軍が会津に押し寄せれば、仙台、米沢藩は無関係ではいられない。諸藩がまとまって意思を示すことで戦争を避けようとしたが、難しくなり、攻守同盟に変化した」とみる。

 軍備を近代化していた庄内藩との戦いで、新政府軍は苦戦を強いられた。陸奥国の入り口に位置する要衝、白河(現在の福島県)では、会津藩と激しく戦火を交えたが、新政府軍は上野戦争などの余波で江戸の治安維持に手を取られ、兵力の供給が滞っていた。

 こうした状況に危機感を抱いたのが、公家出身で新政府の中枢にいた岩倉具視(ともみ)だった。新政府軍を薩長の連合体と見なす列藩同盟の反発を抑えようと、佐賀藩兵などを率いて自身が参戦する構想を描いた。

 「佐賀藩と自分が生死をともにする覚悟で戦地に赴けば、『薩長が私心を欲しいままにしている』という抗戦理由は名目を失う」

 岩倉は議定や参与に宛てた通達でこう記し、6月下旬には副島種臣が、佐賀や大村の藩兵を動員しようと九州に向かった。岩倉の参戦は結果的に実現しなかったが、新政府内での勢力拡大を目指す佐賀藩は、この動きをきっかけに多くの藩兵を東北に送り込む。

 大規模な増兵によって形勢は新政府軍に傾いていく。列藩同盟軍の猛攻に耐えて白河城を守り抜くと、7月下旬にかけて棚倉、二本松などを攻略。8月下旬には会津領に入り、一気に鶴ヶ城下に攻め込んだ。

 籠城の準備もままならないまま容保は城に立てこもり、城下は大混乱に陥った。城への避難が遅れる人が続出し、女性や子どもが相次いで命を絶った。次々に上がる火の手を見た白虎隊の少年たちが自刃する悲劇も起きた。

 新政府軍は城を包囲し、さらに鶴ヶ城を見下ろす小田山を奪った。粘り強く籠城を続ける会津軍に、約1・7キロ離れた小田山から佐賀藩のアームストロング砲の砲弾が降り注いだ。『鍋島直正公伝』は「次々に城中に落ちて爆裂し、多くの兵をせん滅させ、猛火はたちまち城内に広がった」と記す。

 9月中旬には城を取り囲む各部隊がさらに砲撃を加え、城は壊滅的な打撃を受けた。会津軍は1カ月の籠城戦の末に降伏。最終的に新政府軍と戦った米沢、仙台藩をはじめ、列藩同盟の多くの藩もこの頃までに降伏し、同盟は崩壊した。

 新政府は旧幕府軍との戦いを続ける中で、天皇を中心とする新たな政治体制を整えていった。3月の「五箇条の御誓文」で新国家の基本方針を示し、閏(うるう)4月には「政体書」を制定して統治機構を定めた。1月に元服した明治天皇は8月に即位し、9月8日に明治に改元した。 

 天皇は10月、江戸から改称された東京に行幸した。東京ではこの行例を目当てにした見物人で沿道が埋まったといわれている。新政府は、御所の奥で暮らす天皇が民衆の前に姿を現すという演出によって、新時代の到来を強く印象づけようとしていた。

■江藤と大木「両都論」主張

 慶応4年閏(うるう)4月、江藤新平と大木喬任(たかとう)は、東西に二つの都を置く「両都論」を主張する意見書を岩倉具視に提出した。江戸を「東京」に改称、西の京との間に鉄道を建設し、天皇が「両京」を移動して政治を行うように求めた。

 これ以前に大久保利通が大阪遷都を建議したことがあったが、公家や国学者の反対で実現しなかった。江藤と大木の意見は、徳川家の処分決定や上野戦争を経て具体化し、7月に江戸が東京と改称された。

 この時点では首都は京都だった。会津・鶴ヶ城攻略のさなかに明治に改元。明治天皇は東京に行幸し、江戸城を東京城と改めた。その後、政府を一元化する方向で議論が進み、翌年の明治2年3月に天皇が再び東京に行幸し、東京城を皇城とした。

 ただ、反対論者への配慮から東京遷都に関する政府の公式発表はなく、このときの東京への首都移動は「都を定める」という意味の「奠都(てんと)」と呼ばれている。

【年表】

慶応4年(1868)3月 仙台、米沢藩が会津藩征討を命じられる

5月 奥羽越列藩同盟結成

6月 副島種臣が藩士動員のため佐賀藩へ向かう

7月 江戸を東京と改称

8月 会津藩領での戦い始まる

明治元年(1868) 9月 明治に改元 会津藩が降伏

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