譜代の唐津藩は新政府軍に加わるかどうか選択を迫られた。唐津城に藩士が集まり、対応策を議論した=唐津市

小笠原長国が上京するため呼子から乗船した皐月丸(鍋島報效会所蔵・佐賀県立図書館寄託)

 王政復古の大号令、さらに鳥羽・伏見の戦いでの新政府軍の勝利を受け、諸藩は続々と新政府を支持する態度を明らかにしていった。徳川家に仕えてきた譜代大名の唐津藩は苦しい立場に置かれる。藩主小笠原長国の養子で藩主名代を務め、第2次長州征伐(長州戦争)では幕府軍を指揮した老中小笠原長行(ながみち)の存在が問題になり、「朝敵」とみなされた。

 唐津藩の処遇を検討する場になったのが、長崎に藩士を駐在させる諸藩で構成された協議機関「長崎会議所」だった。

 新政府の中枢となった薩摩や土佐藩などが発言力を持つ会議所は、長崎にとどまらず、九州一円の天領接収を目指した。旧唐津藩領だった松浦郡の天領接収と唐津藩の処分を進める目的で、唐津藩の聞役(連絡係)に長崎退去を命じた。

 この事態を受けて唐津藩は、長崎警備を担当する佐賀、福岡の両藩に助けを求めた。長崎警備ににらみを利かせる「長崎見廻(まわ)り役」を担ってきた経緯から両藩との関係は深かったが、色よい返事はない。

 危機感を募らせた唐津藩は慶応4(1868)年1月21日、佐賀藩に使者を送る。「追討を受けるといううわさを聞き、恐れ入っている」と伝え、長崎会議所での周旋を申し入れた。

 たっての要望だったが、佐賀藩側は拒んだ。「朝敵の名を被った上は、尽力する名目が立たない」という理由だった。望みが断たれ、動揺を隠せない使者は「驚愕(きょうがく)、落涙の体」だったという(『鍋島家文庫』)。

 混乱に乗じ、薩摩藩は、島原藩預かりになっていた松浦郡の天領の支配を画策した。米蔵の封印を自藩のものに貼り替える事件を起こし、大川野(伊万里市)に藩兵を進駐させた。

 唐津藩領も、追討を受ければ薩摩藩の支配下に置かれるかもしれない。「そうなるくらいなら佐賀藩に従いたい」。動揺した家臣や、佐賀藩領に近い村々からはそんな声さえ上がった。

 唐津藩が佐賀藩に使者を送ったその日、唐津城には藩士が集まり、新政府に味方すべきかどうかを議論した。このままでは行き詰まり、藩の滅亡につながると考えたのだろう。長国が出した結論は、追討を回避するために長行との父子の縁を絶ち、新政府に従うというものだった。

 この方針を聞いた長崎会議所は、朝廷の指示を待って処分を決めることにした。唐津藩の危機はひとまず回避され、松浦郡の天領も従来通り島原藩預かりとなった。

 藩の存続を確かなものにするため、長国は自ら上京に向けた交渉を始めた。これに対して新政府は、長行による老中在任中の「朝命違背」を理由に「勤王の実効」を求めた。これは長行の切腹、または唐津での謹慎を意味していた。

 同世代ながら、養子縁組で父子の縁を結んでいた長国と長行。長行の切腹だけはしのびなかったのか、長国は江戸から長行を連れ戻そうと画策したが、失敗に終わる。長行は江戸を脱出し、小笠原家の旧領棚倉(福島県)に向かっていた。

 長国は長行の動向を気に掛けながら、京での交渉に向けて佐賀藩の前藩主鍋島直正を頼る。上京する直正に懇願し、呼子に船を回してもらい、皐月(さつき)丸に乗船して2月下旬に京へ向かった。

 危機にひんした藩の行く末をどう思い描いたのだろう。このときの長国の一行について『鍋島直正公伝』は「同じ部屋で寝起きを共にし、航海中は静かに過去や将来について思いを述べていた」と記している。

 長国の入京はすぐには認められなかった。直正の入京から1カ月ほど遅れ、謹慎を経て閏(うるう)4月にようやく新政府軍への参加が認められた。嘆願書の提出など必死の折衝が実を結んだ形だが、石炭を献上したことが藩の存続を勝ち取る決め手になった。

 松浦史談会会長の山田洋さん(81)は、この局面で唐津藩に協力した直正の思惑を「松浦郡の天領に関心を示す薩摩藩に対抗する狙いがあったのではないか。豊富な唐津の石炭の存在も大きかったはず。唐津藩が長行の処分を決めたことで、決断の環境が整った」とみる。

 長国の判断についてはこう捉えている。「唐津藩がもし旧幕府側についていたら、城下町はどうなっていたか。唐津の風土や文化を守った意味は大きい」

 わずかな従者とともに江戸を脱出した長行は、戊辰戦争で箱館まで旧幕府軍と行動を共にし、長国とは別の道をたどることになる。

 

■小笠原長国と長行

 唐津藩の5代藩主小笠原長国と、養子として藩主名代を3年間務め、老中まで登り詰めた長行。2人はどのような関係だったのだろう。

 長行は2代藩主長泰が退く際、藩主に推す動きがあった。こうした経緯もあり、長国を支持する「大殿派」と、長行を推す「若殿派」に分かれて家臣団が争った。若殿派の家臣も多い中で、長国は新政府側につくことで藩論をまとめた。

 立場が異なる2人だったが、元佐賀県立博物館副館長の故小宮睦之さんは論文で、心情的には理解し合っていたと推測している。長行の江戸出奔を「長国はこれに暗黙の理解を示していたと思われる」と記している。

 明治に入ると長国は、長行の長男長生(ながなり)を跡継ぎにしている。小宮さんは「行方不明とされる長行への温かさを、長国はじめ藩士達は失ってはいなかった」と評価している。

 

=年表=

慶応4年 1月 唐津藩が佐賀藩に使者を派遣

(1868)  唐津城に藩士が総登城

     2月 鍋島直正の協力を得て、小笠原長国が京に向け出発

    閏4月 唐津藩が新政府軍に参加することを認められる

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