作家の池宮彰一郎(いけみやしょういちろう)によれば、「忠臣蔵」の話はでたらめばかりだという。芝居や講談の人気のネタになり、脚色され続けた結果だろう◆主君への忠義を貫き、幕府の法を犯してまで仇討(あだう)ちに及んだ赤穂浪士たちに、称賛のまなざしが注がれていた証左でもある。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城松の廊下で刃傷に及んだのは、元禄14(1701)年3月14日。情報は瞬く間に江戸市中に広まった。事件をリアルタイムで記述した史料、佐賀・鹿島藩の江戸藩邸日記が興味深い◆当日の条に「吉良上野介(きらこうずけのすけ)殿が浅野殿から切りつけられたが、眉間の傷は浅く屋敷に帰った」という意味のことが記されている。また、こんなエピソードも。討ち入りの後、鹿島藩士が1人の浪士の刀を内匠頭の墓がある泉岳寺から、コネを使って買い取っている。武士としての浪士への憧憬(しょうけい)がそうさせたのだろう◆あすは討ち入りの日、義士祭だ。ちょうど今、佐賀城本丸歴史館で「葉隠と忠臣蔵」展が開かれている(来年1月15日まで)。葉隠が成立して300年になるのを記念する特別展で、同時代に起きた赤穂事件を紹介し、浪士の遺品も展示している◆葉隠に浪士たちを批判したくだりがあるが、戦(いくさ)がなくなった泰平の世に、武士はいかに生きるべきかを問うたところが事件との共通点。武士の葛藤を感じとることができる。(章)

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