徳川慶喜が諸藩の重臣を集め、大政奉還を諮問した二条城=京都市中京区

政局の変化を江戸や京で目の当たりにした大隈重信は、帰藩して鍋島直正と佐賀城で面会し、持論を訴えた=佐賀市城内の佐賀城本丸歴史館

 威信をかけて臨んだ第2次長州征伐(長州戦争)に失敗した幕府は、態勢の立て直しを迫られた。急死した徳川家茂(いえもち)に代わり、将軍後見職などで幕政を支えてきた一橋慶喜が慶応2(1866)年12月、第15代将軍に就任した。

 その就任から20日後、孝明天皇が急死する。死因は天然痘とされたが、暗殺説も流れた。幕府に攘夷(じょうい)を求めながらも、公武(朝廷と幕府)合体による新たな政体を志向していた天皇が死去したことで、結果的には朝廷内で反幕派が台頭することになる。

 翌年4月、薩摩藩の島津久光が3千人余りの兵を率いて上京した。土佐、福井、宇和島藩を加えた四侯会議を開き、兵庫開港を諸外国と約束した慶喜に圧力をかけようとしたが、不発に終わった。会議は解散し、薩摩藩内では武力による倒幕論が勢いを増していく。

 長州征伐の失敗によって幕府の屋台骨が揺らいでいることは、佐賀藩もいち早く察していた。

 その年の1月、幕府重臣の永井尚志(なおゆき)が慶喜の書状を持って佐賀を訪れた。長州処分などを相談するため鍋島直正に上京を促す狙いだった。直正と面会した永井は「このままでは幕府の維持は難しい」と漏らしたという。

 このことを耳にした大隈重信は、副島種臣とともに行動を起こすことを決意する。藩の貿易担当者として手腕を発揮していた大隈は、長崎で英学を学びながら情報を収集し、国内外の事情に通じていた。国内を内戦で混乱させたくないという思いがあったのだろう。脱藩し、幕府が朝廷に統治権を返上する大政奉還を実現しようとした。

 大隈と副島は京で慶喜の側近と会うことはできたが、慶喜との面会はかなわなかった。政情の不安定さから、側近が佐賀藩に身元の照会をしたため国元に送還され、謹慎処分を受けてしまう。

 薩長の武力による倒幕路線と一線を画し、平和的な新政権樹立を目指したのが土佐藩だった。6月には坂本龍馬が、大政奉還や二院制議会の開設を盛り込んだ「船中八策」を重臣の後藤象二郎に示した。後藤は藩内の武力倒幕派を退け、大政奉還の策で藩論をまとめた。慶喜が自ら政権を返上することで、倒幕派の機先を制する狙いがあった。

 10月には前藩主山内容堂が大政奉還の建白書を幕府に提出。慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に集めて諮問し、朝廷に政権返上を申し出た。焦る薩長は倒幕の密勅を下すよう公家に働き掛け、慶喜が大政奉還を申し出た前日に薩摩、当日には長州に密勅が下った。

 早稲田大学の真辺将之教授は著書『大隈重信 民意と統治の相克』の中で、義祭同盟に集った大隈ら改革派藩士の間では「大政奉還という方策は早くから共有されていた」と指摘している。土佐藩がこれを実現させたことは、大隈にとって「歯噛(はが)みする思いの出来事であったに違いない」と推測している。

 急変する政局をその目で確かめようと、謹慎を解かれた大隈は11月、江戸と京に向かい、実感している。「幕府は既に自滅に陥っている」。『大隈伯昔日譚』によると、大隈は翌月、藩の汽船で帰る途中、乗組員にこのような趣旨の話をしている。

 「天下の大勢はまさに瞬く間に決しようとしている。この時期に遅れた者は永久に遅れるのである。せっかくこの時に巡り合いながら、王政復古の大業に参加できないことになる」

 大政奉還によって先手を打たれた薩長だったが、密勅を得て京に軍勢を上らせていた。大隈は一刻を争う事態と受け止めていた。

 帰藩した大隈は直正との面会が許された。戦闘に発展したとしても「老公(直正)が起(た)つなら、それが激しくならないうちに止めることができる」と大隈は訴え、「起つか起たぬかは、単にわが藩の運命にかかわるばかりではなく、実に国家の安危にかかわるものである」と奮起を促した。

 だが、直正は「すべて聞きおく」と述べただけで、その態度は大隈には冷淡に映った。佐賀藩が方針を明らかにしないまま、京では王政復古のクーデターが勃発する。

 

■長崎に「致遠館」設立

 

 蘭学研究に力を入れていた佐賀藩は、開国後に英学を強化するようになる。「万延の遣米使節団」に参加し、「蘭学だけだと時機に遅れをとる」と痛感した小出千之助が藩を動かした。

 小出の報告は同僚の大隈重信にも影響を与えた。2人は鍋島直正に英学の必要性を建言し、英学校を長崎に設立することを計画した。慶応3(1867)年、米国の宣教師フルベッキを教師に迎えて「蕃学(ばんがく)稽古所」が設けられた。

 藩は学生約30人を派遣し、大隈や副島種臣は教壇に立ちながらフルベッキから教えを受けた。2人は新約聖書と米国憲法を熱心に学び、この経験は後に、副島による維新政府の「政体書」起草や、大隈の立憲政治家としての活動に生かされる。英学校は開設の翌年、「致遠館」と改称された。

 

=年表=

 

慶応2年 12月(1866)一橋慶喜が第15代将軍に就任

              孝明天皇が死去

慶応3年  6月(1867)坂本龍馬が「船中八策」を示す

     10月      土佐藩が大政奉還の建白書を提出

              慶喜が朝廷に政権返上を申し出

              薩摩、長州に倒幕の密勅が下る

     11月      大隈重信が江戸、京を訪れる

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