脱藩した江藤新平が訪れた長州藩邸跡。現在は桂小五郎の銅像が建つ=京都市中京区

 京の伏見の船宿で、薩摩藩士の内紛が起きたのは文久2(1862)年4月のことだった。尊王攘夷(じょうい)を成し遂げようと蜂起を計画して勇む者たちを、同じ薩摩藩士が討ち、鎮圧した。「寺田屋騒動」と呼ばれる事件だ。
 凄惨な同士打ちの背景には、長州藩との主導権争いが影を落としていた。
 日米修好通商条約の締結に反発し、条約を破棄する「破約攘夷」の主張が勢いを増す中、長州藩は条約を受け入れて公武(朝廷と幕府)が一致して軍備を整えるように訴えていた。騒動の前年のことで、朝廷と幕府の支持を得ていた。
 薩摩藩主島津茂久の父親で公武合体論者だった久光は、長州が先んじる動きを快く思っていなかった。文久2年1月、公武合体路線を推し進めていた老中安藤信正が襲撃される「坂下門外の変」が起きると、主導権を握る狙いで行動を起こす。4月には千人の藩兵を率いて京に向かった。

薩摩藩士の内紛の舞台になった寺田屋=京都市伏見区

 寺田屋騒動は久光が京に着いて1週間後に起きている。藩兵とは別の、倒幕にはやる薩摩藩士の一部が制圧された格好だ。
 武力をちらつかせての上京は、勤王、攘夷を強く主張する薩摩藩士に限らず、諸藩の有志を刺激していた。久留米藩の真木和泉(まき・いずみ)や福岡藩の平野国臣(くにおみ)らは他藩からも同志を集め、倒幕を目指す一大勢力を形作ろうと画策した。下級武士や浪人ら、さまざまな立場の人物が政治の舞台に躍り出ようとしていた。
 平野は旗揚げの賛同を得ようと、佐賀城下にも赴いている。騒動の半年前に当たる文久元年10月、枝吉神陽を訪ねている。平野の伝記には「時勢を論じて意見がすこぶる一致した」とあり、副島種臣、江藤新平、大木喬任(たかとう)とも議論を重ねた。12月には真木の息子主馬も江藤を訪ねている。
 糾合を目指す反幕府勢力が佐賀藩の動向に注目する中、藩から飛び出したのが江藤だった。坂下門外の変に関与したとして投獄された義祭同盟の盟友、中野方蔵が文久2年5月に獄死したことをきっかけに、脱藩の禁を犯すことを決意した。翌月、大木から借りた資金を頼りに京に向かった。
 江藤は長州藩邸に尊王攘夷派の中心人物、久坂玄瑞を訪ねたが不在で、桂小五郎と出会う。桂のつてで攘夷派公卿(くぎょう)の有力者、姉小路公知(あねこうじ・きんとも)との関係を築き、人脈を広げていく。
 江藤の脱藩について、佐賀偉人伝『江藤新平』を執筆した大倉精神文化研究所(横浜市)の星原大輔さん(40)は「尊王攘夷運動への参画というより、収集した情報を基に、佐賀藩の上層部を動かすことが狙いだった」とみている。
 京を舞台にせめぎ合う薩長と異なり、佐賀藩は政治的な運動と一線を画していた。距離を置いていた分、刻々と変わる政局は把握しづらく「佐賀藩は正確な情報を欲していた」(星原さん)といい、江藤が結果的に情報収集役を担ったとみる。他藩も、江藤と交流することは、表舞台に出てこない佐賀藩の内情を知り、人脈をつくるのに有益と考えていたと推測する。
 江藤がまとめた「京都見聞」には、各藩の立場や公卿との関係など、当時の政局の最新事情が詳細に記されている。大木らに送った書簡からは、大和(奈良県)から越前(福井県)に足を延ばす計画が記され、活動が広範囲に及んでいたことがうかがえる。
 鍋島直正が上京するという知らせを旧暦の閏(うるう)月の8月に聞き及んだ江藤は、直正が出発する前に、京都見聞を手に帰藩することを決意する。
 脱藩は重罪で、9月に佐賀に戻った江藤を待ち受けていたのは「死罪に処すべき」という藩首脳の厳しい方針だった。だが、京都見聞に目を通した直正は「無断脱走は藩のためにしたこと」として死罪にはせず、無期限の自宅謹慎である永蟄居(えいちっきょ)を命じた。
 一方、島津久光は文久2年6月、勅使を警護する形で京から江戸に赴き、一橋慶喜らを幕府の要職に就任させた。威圧する形で幕政改革に成功した久光だったが、江戸から帰藩する途中の8月、外交問題に発展する事件を引き起こす。


■枝吉神陽の死

 江藤新平が師事した枝吉神陽は、平野国臣の来訪を受けた後、鍋島直正の参府に従って江戸に向かった。文久元年の冬に到着し、これが神陽にとって最後の江戸滞在となった。
 12月には弟の副島種臣に手紙を送り、「外国人がうろつくこともなく、まずまず平穏だ」と江戸の状況を報告している。
 だが、門下生の中野方蔵が坂下門外の変に関与したとして捕らえられたことで状況は一変。神陽は身の危険を感じて外出を控え、文久2年4月ごろ、佐賀に戻った。
 この年の8月、妻のしづがコレラに冒された。看病をしていた神陽にも感染し、しづが亡くなった2日後に神陽も他界した。

【年表】
文久2年(1862)  
1月 坂下門外の変
4月 島津久光が上京
   寺田屋騒動
5月 中野方蔵が獄死
6月 江藤新平が脱藩
9月 江藤が帰藩、永蟄居に処される
 

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