激戦となった小倉口の戦いで、小倉藩は小倉城に火を放って撤退した=北九州市小倉北区

刀を手にした高杉晋作の写真(萩博物館提供)

小笠原長行が第2次長州征伐で着用した兜(唐津市提供)

 九州から長州藩に戻った高杉晋作は元治元(1864)年12月、保守派打倒を目指して挙兵する。率いるのは遊撃隊と力士隊のわずか80人ほど。高杉は決起に際し、こう叫んだという。

 「是(これ)よりは、長州男児の腕前お目にかけ申すべし」

 下関にある藩の出先機関を襲撃し、軍艦を奪い取るなど動きは速かった。呼応した奇兵隊などの諸隊も各地で勝利を収めた。保守派を萩に追いやり、勝敗の帰趨(きすう)は決した。

 慶応元(1865)年3月に改革派が実権を握り、新たな方針を打ち立てた。幕府に対して恭順を装いつつ、裏では再度の征討に備える-。この「武備恭順」の号令の下、長州藩は急速に軍備を充実させていく。

 幕府内部では、戦端を開かないまま終結した先の征討の不満がくすぶっていた。不穏な動きを見せる長州を再び攻めるべきという意見が強まり、閏(うるう)5月に将軍家茂が上京した。孝明天皇は再度の征討には消極的で、家茂が勅許を得るまでに4カ月がかかった。

 諸大名の間にも、征討に反対する声が広がりつつあった。諸藩が広く国政に参加できる体制を求める機運が高まる中、大義名分が見いだしにくい2度目の内戦に、強権的に動員を図ろうとする幕府の姿勢が反発を招いた。

 長州藩は、武器購入での連携で宿敵だった薩摩藩との雪解けが進み、土佐藩出身の浪士坂本龍馬の仲介で慶応2(1866)年1月に薩長同盟を成立させた。

 幕府が示した領地10万石削減などの処分案の受け入れを長州藩が拒んだことで、開戦は決定的になった。幕府は6月に宣戦布告し、藩境の大島口、芸州口、石州口、小倉口で両軍がぶつかった。このうち小倉口では、高杉晋作と唐津藩主名代を務めた小笠原長行(ながみち)が指揮官として対(たい)峙(じ)した。

 長行は生麦事件後の率兵上京を主導したため罷免されたが、老中に返り咲いていた。家茂からの書状には「防長(長州)処置の儀、全権を与え候間、万事見込み通り十分に取り計らい申すべき事」とあり、長行に信頼を寄せていたことがうかがえる。

 長州側の未明の奇襲で戦いは幕を開けた。6月中旬、高杉率いる長州軍は軍艦で関門海峡を渡って小倉藩領に攻撃を仕掛け、門司などを占拠。素早く撤収して反撃の隙を与えず、緒戦で優位に立った。

 7月上旬の大里(だいり)(現在の門司駅付近)の攻防戦でも長州軍が、多くの死傷者を出しながらも勝利を収める。劣勢だった幕府側も、小倉城下のはずれで、赤坂の砲台を守る熊本藩兵が長州軍を迎撃した。

 一進一退の攻防を繰り広げたが、幕切れは突然、訪れた。

 長行が戦線を放棄し、軍艦で長崎に去った。7月下旬に将軍家茂が大阪城で病死したとの一報が届いたことが原因だった。諸藩の軍勢も退却を始め、追い詰められた小倉藩は小倉城に火を放って撤退した。長州藩は小倉口以外でも勝利を収め、幕府は威信をかけて臨んだ2度目の長州征伐で敗北を喫した。

 この戦いを通じて明らかになったのは、軍備の近代化を推し進めた長州藩と、幕府側との軍事力の差だった。幕府の影響力の低下がさらに進み、「朝敵」とされた長州藩と他藩との連携が広がったことも見逃せない。同盟を結んだ薩摩藩は出兵に公然と反対し、幕府は萩から攻め入る計画の中止を余儀なくされた。

 佐賀藩も慎重姿勢を強め、第1次征伐から兵力を大きく減らしている。幕府の権威失墜は、誰の目にも明らかだった。

 萩博物館特別学芸員の一坂太郎さん(50)は、明治維新の本質を「政権交代」と捉え、「長州は戦争を利用して徳川政権のだらしなさを宣伝し、薩摩がそれに加担した。民衆が幕府に寄せてきた信頼が揺らぎ、倒幕の歯車が大きく動いた出来事だった」と話す。

 幕府軍との戦いで体調不良を訴えるようになった高杉は、小倉城が落ちた慶応2年8月ごろから肺結核が悪化した。明治維新をその目で見ることなく、翌年4月に没した。

     *    *

次回は、大政奉還に向けた政局と佐賀藩の動きを描きます。

 

<高杉の小笠原長行評>

 

 小笠原長行は第2次長州征伐開戦前の慶応2(1866)年2月上旬、処分案を長州藩に伝達するため広島を訪れた。高杉晋作は、薩長同盟を締結して同じ時期に山口に帰ってきた桂小五郎への書簡で、長行について触れている。

 広島での談判は、幕府側の長行と永井尚志(なおゆき)、長州藩の使者山県半蔵の間で行われた。2月20日の書簡で高杉はこの様子を「この度は断然処置これ有りとの義、愉快の至りに御座候(そうろう)」と余裕を持って眺めている。

 長行は22日に広島藩を通じて、長州4支藩の藩主や家老を広島に呼び出したが、病気を理由に拒否。結局、山県が1人で対応した。高杉は26日の書簡で「小笠原は書生上がりの男、永井も同じで、山県とはよろしき角力(すもう)と存じ候」と記している。

 

=年表=

 

元治元年 12月 高杉晋作が挙兵

(1864)

慶応元年  3月 長州藩で改革派が実権握る

(1865)

     閏5月 徳川家茂が入京

      9月 家茂が長州征伐の勅許を受ける

慶応2年  1月 薩長同盟が成立

(1866)

      6月 小倉口の戦いが始まる

      7月 家茂が大阪で死去

慶応3年  4月 高杉晋作が死去

(1867)

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