神六御番所之図。番所のほか、藩境や番所に詰める足軽の住居等が描かれている

 江戸時代、佐賀藩と他領との境目には番所がありました。武雄領は西で大村藩と接していたため、神六(西川登町)に西目番所が設けられていました。

 これらの番所は、江戸時代初めは本藩が警備をしていましたが、中頃までには各領で行うようになったとされます。

 『近世武雄史談』には「我武雄ハ神六ニ於テ大村藩ト桃ノ川ニ於テ天領桃ノ川(幕府直領ヲ云フ)及唐津藩ト境シテ居タカラ此両地ニハ御番所ガアツテ槍ヤ、袖マクリ等ノ武器ガ備付ラレ、神六ニハ五人ノ足軽ガ交代ニテ昼夜厳重ニ見張ヲシテ居テ通行人ト其 携帯品ヲ検査シタ(此両御番所ハ維新マデ在ツタ)。」と記されています。

 桃ノ川番所があった川原村は元々唐津藩領でしたが、文化14(1817)年に幕府領となりました。また番所の警備は『武雄史』では、侍3、4人、足軽20人が交代で行ったとされます。

 武雄鍋島文書の『神六御番所掟』=寛政10(1798)年6月=には、荷物の出入りの監視と、それに対する俵銭(関税)が定められています。この俵銭は本藩の収入となっていました。

 また、神六の番所には古番所と新番所がありました。大村との藩境については両藩の主張が異なっていたため、中立地帯を設けていた時期がありましたが、天明7(1787)年に論争が解決したことから、境に近い位置に番所の場所を移したのではないかと推測されます。

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