高杉晋作が鍋島直正に送った漢詩。「閑叟」の文字が確認できる(個人蔵)

4カ国連合艦隊に長州軍が応戦した壇ノ浦砲台跡。現在は大砲のレプリカが設置されている=山口県下関市

「国内をいたずらに混乱させるべきではない、という直正の考えは一貫していた」と説明する萩博物館特別学芸員の一坂太郎さん=山口県萩市

 佐賀藩主を退いても存在感を保っていた鍋島直正に宛てて、長州藩士の高杉晋作が詠んだ漢詩がある。九州に潜伏していた元治元(1864)年11月、現在の鳥栖市東部と三養基郡基山町にあった対馬藩田代領でつづった。

 〈妖霧空に漫(みなぎ)り雨気濛(くら)し

 路頭の楊柳東風を怨(うら)む

 政は猛虎の如(ごと)く秦民苦しむ

 今日は何人(なんぴと)か漢中を定めん〉

 長州を覆う怪しい霧を払うのは誰か。それは直正だ-。そんな思いが込められていたという。

 攘夷論で一時、京を席巻した長州藩は、存亡の機にあった。

 薩摩、会津藩などが仕掛けた文久3(1863)年の「八月十八日の政変」で長州藩は京から追われた。失地回復を狙って翌年7月に挙兵したが、薩摩や会津の軍に撃退される。「禁門の変」と呼ばれるこの戦いで敗れ、「朝敵」となった長州に対し、征討軍が向けられる事態になった。

 西日本の諸藩は幕府から出兵を命じられ、佐賀藩でも緊張が一気に高まる。攘夷論を主導してきた長州藩を討つ軍を送るべきか否か。江藤新平や大木喬任(たかとう)、副島種臣ら義祭同盟の面々は夜を徹して議論した。大木や副島は出兵に反対する意見書を提出したといわれ、直正も反対の立場だった。

 武雄領主の鍋島茂義を上京させて情勢を探らせた直正は、10月に京に入った。「天皇と対面してご機嫌をうかがう」ことを表向きの理由としつつ、「禁門の変は恐れかしこまることだが、征伐の前に一応(長州を)詰問する必要がある」と朝廷に具申している。

 禁門の変の翌月、長州藩はさらなる危機に見舞われていた。前年に外国船を砲撃したことへの報復として、英仏蘭米の4カ国連合艦隊から下関の砲台が攻撃を受けた。「馬関戦争」「下関戦争」とも呼ばれるこの戦闘で長州軍は敗れた。

 民兵組織「奇兵隊」を創設し、列国との講和交渉にも当たった高杉晋作は、別の漢詩でこう詠んでいる。

 〈内憂外患吾(わ)が州に迫る

 正(まさ)にこれ危急存亡の秋(とき)〉

 長州藩内では改革派に代わって実権を握った保守派が敵対勢力の弾圧に乗り出し、奇兵隊などの諸隊に解散を命じた。西日本の諸藩が送り出した征討軍の軍勢が続々と集まった11月には、3人の家老に自刃を命じて恭順の意を示した。

 改革派の幹部だった高杉はこのときに、身の危険を感じて九州に逃れていた。佐賀藩や福岡藩など九州諸藩から支援を取り付ける狙いで、「長州征伐」に慎重な意見を述べた直正に決起の期待を抱いて漢詩を送った。

 この漢詩が実際に直正の手元に届いたかどうかは、はっきりしていない。いずれにしても、佐賀藩は保守派打倒に手を貸すことはなく、結果的に征討軍に加わる約1万2千人を出兵させた。

 萩博物館(山口県萩市)の特別学芸員で、高杉晋作を研究している一坂太郎さん(50)は推し量る。

 「国内をいたずらに混乱させるべきではない、という直正の思いは一貫していて、そのために京で尽力しようとしたのではないか。長州への同情もなかったとは思わないが、高杉が状況を読み間違えてしまった」

 3家老の自刃をきっかけに、薩摩の西郷隆盛を中心にした和平交渉が本格化し、長州は、征討軍が兵を引く条件として示した謝罪や山口城破壊を受け入れた。第1次長州征伐(長州戦争)と呼ばれる一連の出来事は、戦闘には至らず、年末までに幕府側の勝利で終結した。

 田代領から福岡に身を移し、潜伏していた高杉は11月下旬に帰藩。異を唱えて、わずか80人ほどを率いて挙兵し、長州は内戦状態に突入する。

 

 ■次回は、高杉晋作や小笠原長行が参戦した小倉口の戦いを中心に、第2次長州征伐を取り上げます。

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