幕末の政局の舞台となった京都御所。将軍徳川家茂が上京し、政治の中心は江戸から京に移った=京都市上京区(宮内庁提供)

文久2年12月以降に撮影された衣冠束帯姿の鍋島直正(鍋島報效会所蔵)

 佐賀藩主鍋島直正の動向が、これまで以上に耳目を集めていた。文久元(1861)年2月、息子の直大(なおひろ)が初めて将軍徳川家茂に謁見(えっけん)し、翌月には元服。11月に数え年16歳で家督を相続すると、直正は隠居し、「暇な年寄り」といった意味合いの「閑叟(かんそう)」を名乗る。この真意をめぐって臆測が広がった。

 「直大に職を譲って任務を習熟させ、自身は藩主の束縛から逃れて、機会があれば船で海外に渡る」-。『鍋島直正公伝』が「最も穏当な説」と記すのがこうした見方だった。

 健康面に不安を抱えていたためか、直正は実際には海外に渡航していない。遣米使節団やパリ万博に藩士を派遣して情報を集め、自らは中央政局への関わりを深めていく。

 文久年間に入り、政局は目まぐるしく動いていた。文久2年4月、薩摩藩の島津久光が率兵上京し、いったんは長州藩から主導権を奪ったが、久光が京を離れている間に長州藩の攘夷(じょうい)派が台頭して京を席巻した。直正が朝廷から、幕府との間を取り持つ「公武周旋」の命を受けたのはこうした時期だった。

 閏(うるう)8月、「鍋島家も薩摩や長州と同様、誠意を持って周旋に当たるように」と内命を受けた直正は上京を決める。長州藩は攘夷論に転じる以前、通商条約を受け入れて公武(朝廷と幕府)が一致して軍備を整えるよう訴えた。公武合体を唱える薩摩の久光も朝廷の後押しを受けて幕政改革を実現させていた。

 脱藩していた江藤新平がもたらした政局の最新情報に目を通した直正は、11月に電流丸で佐賀を出発した。京に入って朝廷に申し出た事柄は意外な内容だった。

 直正は、京都警備を引き受けることに加え、長崎警備の免除を関白に要望した。初代藩主勝茂の時代に幕府から命じられ、「家職(かしょく)」として受け継いできた長崎警備を手放してまで京都警備を担おうとした。

 他藩からは、1年交代で長崎警備を担う福岡藩に相談もせずに免除を申し出たことをいぶかる声が上がる。同様に京都警備を申し出ていた薩摩藩と対立しかねない状況も招いた。

 直正が警備を要望した地域が、攘夷派の拠点になっていた伏見・桃山だったことから、公武合体論に立つ直正が京都の攘夷派の排除を狙ったという見方がある(木原溥幸著『佐賀藩と明治維新』)。

 これに対し、佛教大学歴史学部の青山忠正教授(67)は、幕府の影響力の低下に伴う将軍と大名の主従関係の形骸化を見て取る。文久2年10月から翌年にかけ、直正以外にも多くの大名が朝廷の求めに応じて上京していた。直正は幕府の了解を得ずに直接、朝廷に京都警備を願い出ている。

 「天皇の身を守っている限り安全であり、大義名分が立つという状況が生まれていた」。当時の政局を青山教授はこう解説する。参勤交代を3年に1回に緩和するなど、政策面にも幕府の権威低下が表れていると捉え、「大名は将軍の家臣から、天皇を守る藩屏(はんぺい)へと立場を変えつつあった」と指摘する。

 12月、家茂が将軍として約230年ぶりに上京することが決まり、政治の中心が江戸から京へ移ろうとする中、公武合体を目指す直正は立ち位置に苦慮する。

 江戸に向かった直正は翌年1月、家茂の文武修行相談役を命じられたが、20日足らずで京に出発した。2月には孝明天皇が在京の大名や隠居らを御所に召集したものの、直正は参内しなかった。京で「天誅(てんちゅう)」と呼ばれる暗殺事件が横行していたため、病気を理由に参内しなかったといううわさが流れた。

 直正は2月末、翌月に入京する家茂と入れ替わるように京をたち、佐賀に戻った。直正の意図について青山教授は「家茂に攘夷実行を求める圧力が強まる中、京で実行の命を受ける可能性を感じ取ったのではないか」と推察する。

 直正が求めた京都警備は実現せず、周旋の成果は芳しくなかったが、その後、京の勢力図は再び塗り替えられる。京では「八月十八日の政変」で薩摩、会津藩などが長州藩と攘夷派公卿(くぎょう)を追放し、公武合体派が実権を奪い返した。

      *    *

 ■次回は、第1次長州征伐(長州戦争)と佐賀藩の関わりを描きます。

 

■直大の鎧召初め

 

 武家の男子が元服を迎える時期の儀式として、初めて鎧(よろい)を着る「鎧召初(よろいめしぞ)め」がある。鍋島直大は元服して家督を相続する3年前の安政5(1858)年11月にこの儀式を行った。

 佐賀藩では珍しく、藩主直正が自ら鎧を身に着けさせた。これは3代藩主綱茂の鎧召初めの際、初代藩主勝茂が自ら、朝鮮出兵時に藩祖直茂が着用した由緒ある兜(かぶと)かぶとを着せたことに倣ったといわれている。

 後に直大が江戸に出府する際、直正は「鍋島家らしい古風さを忘れないこと」と言い聞かせている。直大が11代藩主に就任したのは、数え年で直正より1歳若い16歳。激動の時代に過去最年少で藩主になる息子に、直正が強調したのは伝統の持つ力だった。

 

■年表

 

文久元年 3月 鍋島直大が元服

(1861)

     11月 鍋島直正が隠居、直大が家督相続

文久2年 11月 直正が入京

(1862) 

     12月 直正が京都警備の引き受けと長崎警備免除を要望

文久3年 1月 直正が将軍の文武修行相談役を命じられる

(1863)

     2月 直正が京をたち、佐賀へ

     8月 八月十八日の政変

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