「もののあわれ」という言葉がある。日本人特有の美意識の一つで、無常観的な哀愁、悲しみとも、はかないものへのしみじみとした感情ともとれる。ノーベル文学賞に決まったカズオ・イシグロさんが好きな日本語だという◆家族の崩壊を描いた小津安二郎監督の映画「東京物語」や、敬愛する村上春樹さんの小説にも「もののあわれ」がある―。イシグロさんはそうインタビューで語る。作品には、抗あらがうことのできない波に翻ほん弄ろうされる人々の悲しみが多く描かれている◆代表作『日の名残り』は、英国の貴族に仕える老執事が回想する小説だ。彼は主人の重大な汚点に心を痛めながらも、まるで江戸時代の主君と家来のように、ただただ忠実に従う。メイド頭への想おもいも感情を表せずに封印してしまう◆小説のラスト。〈あのときああすれば人生の方向が変わったかもしれない―そう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで悩んでいても意味のないことです〉。そう考えて、老執事は前を向く◆自分の力ではどうにもできないことが起こるのが人生。でも乗り越えていくしかないし、そうできる強さを持っているのも人間だ。生きていれば悪いことばかりじゃない―。イシグロ文学の根底に流れるメッセージを感じとる。今回の受賞で、私たちはまた一つ勇気をもらえた気がした。(章)

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