幕末、佐賀藩を揺るがす出来事があった。嘉永6(1853)年7月、ペリーの浦賀来航に遅れること約1カ月、ロシア国使節としてプチャーチンが4隻の軍艦を率いて長崎に入港。警護を受け持つ佐賀藩にも緊張が走った◆佐賀城下では大きな寺、神社で鐘を打ち鳴らして事態を知らせた。空襲警報みたいなものである。佐賀藩は長崎港口の伊王島・神ノ島に独自に砲台を築いており、藩主鍋島直正は「もし外国船に不穏な動きがあれば、砲撃して挫(くじ)け」という意味の指令を出している◆プチャーチンは数カ月間、長崎に居座ったが、火花を散らすことなく去った。重い鎖国の扉を開けさせようとした出来事から約160年後、かの国から注目のプーチン大統領が来日した◆よもやの「大遅刻」での幕開けに、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いではないが、安倍首相をじれさせて事を優位に進めようとの深慮遠謀があったのか。そういぶかりたくなるのは、焦点の北方領土問題を巡って最近、ロシア側が盛んに「けん制球」を投げていたからだ◆歴史をたどれば、ロシアの日本への南下は18世紀末に始まった。その延長線の上にプチャーチンの来航があり、のちに彼は日露和親条約の締結に成功する。今また両国のトップがどこまで友好の手を握り合うか。国益をかけた探り合いが続く。(章)

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