旧東海道沿いにある生麦事件の石碑=横浜市鶴見区

かつて米国領事館が置かれ、生麦事件で負傷した英国人が逃げ込んだ本覚寺=横浜市神奈川区

■賠償、率兵上京を主導

 宿場で昼食を取った後の出来事だった。文久2年(1862)年8月、江戸を出発した薩摩藩の島津久光の一行は、生麦村(現在の横浜市鶴見区)に差し掛かったところで、馬に乗った英国人4人と行き会う。

 道幅は狭く、馬は行列の中に入り込んでしまう。英国人は乗馬や観光を楽しんでいただけとされるが、藩士から見れば、主君に近づいてくる不審者に映ったのだろう。数人が抜刀し、4人のうち1人を斬殺した。ほかの英国人は命からがら、米国領事館があった本覚寺などに逃げ込んだ。

 「生麦事件」と呼ばれるこの惨事は外交問題に発展する。英国は翌年2月、横浜に入港した英仏蘭米の4カ国艦隊で圧力をかけながら、謝罪と賠償金10万ポンドの支払いを幕府に要求した。

 このとき、攘夷(じょうい)を主張する朝廷から支払いを拒否するように求められ、対応に苦慮した幕府が京から呼び寄せたのが、老中格の小笠原長行(ながみち)だった。

 長行は、安政5(1858)年から3年間、唐津藩主名代を務めた後、江戸に参府した。生麦事件が起きる1カ月前に要職の奏者番に任命された後、数カ月の間に若年寄、老中格と出世し、外交責任者である外国御用掛(ごようがかり)も任されていた。

 長行を交えて始まった評議では意見が対立した。

 「英国の要求は理も言葉も正しく、これに応じなければならない」

 「賠償金の請求は侮辱であり、断じて支払うべきではない。戦争あるのみ」

 賠償金を支払う意見が次第に大勢を占め、文久3年(1863)年4月には、同意する旨を英国側にいったんは伝えた。しかし、支払いに反対する将軍後見職の一橋慶喜が京から江戸に戻ることが決まると、再び紛糾する。拒否すべきという声が続出し、期限前日の5月2日に支払いを中止せざるを得なくなった。

 話し合いでの解決を断念した長行は、独断で賠償金を支払う決意を固める。

 「この場にいたって約束を反故(ほご)にするならば、不信不義、これより甚(はなは)だしきはない」

 長行は船で横浜に向かい、5月9日に10万ポンド全額を英国公使館に運ばせた。

 この決断には、幕府が朝廷に対し、強硬的な攘夷実行を期限を切って約束していたことも大きく影響していた。

 久光が京を離れている間に、通商条約を破棄する「破約攘夷」に藩論を転換した長州藩が巻き返し、朝廷は幕府に攘夷実行を要求した。3月に上京した将軍徳川家茂(いえもち)は、5月10日を実行の期限とすることを約束させられた。長行は英国との戦闘を避けるため、期限までの解決にこだわった。

 長行は、幕府の中で積極的な開国論に立つ官僚グループの指導的立場にあった。生麦事件の賠償金支払いを主導した長行らは、現実の対外関係や列国の軍事力を無視した攘夷論に反発する。長州系の攘夷派が牛耳る京の勢力図を塗り替えようと、率兵上京まで計画した。

 千数百人の軍勢を乗せた船は5月下旬、横浜を出発。大阪に上陸して京に向かったが、制止する幕府の使者が相次いだため、手前の淀で足止めされた。結局、長行が大阪に引き返し、計画は不発に終わった。

 計画中止を求める家茂の親書が届いたことで、長行は入京断念を決意した。配下の官僚たちは激高して計画を強行しようとしたが、長行は「涙をのんで思いとどまらざるを得なかった」(田辺太一著『幕末外交談』)という。

 長行が主導した率兵上京計画について、立命館大学文学部の奈良勝司助教(40)=明治維新史=はこう指摘する。「攘夷を断念するように将軍や幕閣を説得することが目的だったが、攘夷派との武力衝突の覚悟も持っていた。クーデターとも呼べるものだったが、土壇場で将軍との君臣関係に重きを置いた」

 長行は職を免じられたが、賠償金支払いを決めた決断力と、将軍への忠節を貫いた姿勢が周囲の評価を高め、後に再び政治の舞台に登場することになる。

 

■古賀〓(人ベンに同)庵の薫陶

 小笠原長行とともに生麦事件の解決に尽力し、その後の率兵上京を計画した官僚グループ。彼らに多大な影響を与えたのは、幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」で教えた古賀〓(人ベンに同)庵(とうあん)だった。

 〓(人ベンに同)庵は、佐賀藩の教育改革を献策して鍋島直正の教育係を務めた古賀穀堂の弟で、「寛政の三博士」と呼ばれた父親の精里と同様に昌平黌の儒官になった。

 開国や西洋の科学技術の導入を説いた『海防臆測(おくそく)』を著した〓(人ベンに同)庵の薫陶を受けた昌平黌の者たちは、幕府の対外関係部局で重要な地位を占めた。

 開国し、条約など国家間の約束事に基づいて対等な関係を築こうという彼らの思想について、立命館大の奈良勝司助教は「規範性と柔軟性を両立させた革新的な対外姿勢だった」と評価する。

 

■年表

文久2年(1862)8月 生麦事件

文久3年(1863)2月 英国が幕府に賠償金を要求

          5月 小笠原長行が賠償金を支払う

             長行が主導し、軍勢が海路京都へ

          6月 将軍の親書を受け、入京を断念

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