■大隈重信、辰野金吾、志田林三郎…高い教育熱、多彩な人材輩出

 明治維新後、日本の急速な近代化を可能にしたのが、江戸後期から脈々と培われてきた教育風土だった。

 佐賀の場合、佐賀藩の藩校「弘道館」から、北海道開拓の祖とされる島義勇、後の日本赤十字社を設立した佐野常民、総理大臣を2度務めた大隈重信らを輩出した。

 弘道館は徹底した実力主義で、成績優秀者は身分に関係なく藩の役人に登用したり、留学の機会を与えたりした。一方、25歳までに所定の学問を修めることができなければ、家禄の一部を没収するなど厳しい規則を定めた時期もあった。

 弘道館以外にも西洋医学を学ぶ「医学寮」や物理、化学、数学などを学ぶ「蘭学寮」を設立、最先端の科学技術導入の素地をつくった。

 こうした教育熱は本藩だけでなく、支藩や領地でも盛んだった。多久領の「東原庠舎」は武士だけでなく、農民や町人の子弟にも門戸を開き、電気工学の志田林三郎、炭鉱開発の高取伊好といった人材を生んだ。

 このほか、「興譲館」(小城藩)、「成章館」(蓮池藩)、「弘文館」(鹿島藩)、「身教館」(武雄領)、「思斉館」(久保田領)、「三近堂」(須古領)など、さまざまな学びの場があった。

 一方、譜代大名が代々治めた唐津も幕府の学問奨励を受けて藩士の教育に力を注いだ。農村では庄屋たちが「郷塾」と呼ばれる民間塾を開き、庶民の教育を下支えした。

 明治3年に開設された唐津藩の英語学校「耐恒寮」では、東京駅の設計などで知られる辰野金吾や曽禰達蔵といった建築家、唐津港開港などに関わった実業家の大島小太郎らが学んだ。

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