150年前のパリ万博で配れらたイラスト入りのガイドを開く佐賀城本丸歴史館の浦川和也企画学芸課長。当時の万博会場の広さがうかがえる=佐賀市の同館

■海外派遣に強い意志

 150年前に誘(いざな)うチケットが、往時の活況の片りんをうかがわせていた。

 1867(慶応3)年4月に開幕し、7カ月の期間中に1500万人が来場した第2回パリ万国博覧会。佐賀藩の藩士だった佐野常民がフランスから持ち帰ったとされ、佐野常民記念館(佐賀市川副町)が所蔵するカードには、展示会場と思われる写真のそばに「DE PARIS 1867」と記されている。

 フランス政府が幕府に参加を要請したのは1865(慶応元)年秋。幕府は当初、消極的で、薩摩藩が先に参加を決めた。すると、後を追うように幕府も参加を決め、1866(慶応2)年春には各藩にも通知を出し、出品を呼び掛けた。

 慶応2年1月に薩摩、長州両藩による薩長同盟が成立し、倒幕に向けた動きは新たな局面を迎えていた。幕府との間には主導権を巡るせめぎ合いがあった。

 幕府の呼び掛けに応じたのは佐賀藩だけだった。藩主鍋島直正の伝記『鍋島直正公伝』はこう記す。「直(ただ)ちに参加することを決め、領内の磁器、白蝋(ろうそくなどの原料)、紙、麻その他の物産を収集した」

 有田焼を欧州に輸出した経験があったとはいえ、混迷を深めつつあるこの時期に、佐賀藩はなぜ万博への参加を決めたのか-。

 国禁だった海外渡航が慶応2年に解禁される前、長州藩や薩摩藩は密航という手段を使って藩士を渡航させ、海外事情を調べていた。これに対して佐賀藩は、幕府主導の使節団への参加が中心で、解禁以前に密航したのは2人とされる。佐賀藩は長崎警備を務める立場上、積極的に密航に関わるわけにはいかなかった。

 「当時の佐賀藩は海外の知識を得るチャンスがあるなら、積極的に出て行きたい状況だった」。鍋島報效(ほうこう)会評議員の大園隆二郎さん(64)はこう分析する。海外渡航解禁から1871(明治4)年の廃藩置県までに、佐賀藩は最も多くの海外留学生を送り出した。万博への派遣は、本格的な海外進出の先駆けだった。

 パリ万博には5人が派遣された。団長は、科学技術研究を手掛ける精煉(せいれん)方のリーダー佐野栄寿左衛門(常民)。製薬業の烏犀園(うさいえん)本舗の主人、野中元右衛門が販売面を担当することになった。陶磁器製造・販売の深川長右衛門も加わり、通訳には、1860(万延元)年に幕府遣米使節団に参加した経験があり、語学力に秀でた小出千之助が選ばれた。精煉方の藤山文一は従者として佐野に同行した。

 野中元右衛門の『仏国航路記』には、従者を除く4人の心境が刻まれている。

 「慶応三年三月八日、夜亥刻(いぬこく)乗船。人々船内迄(まで)おくり来(くる)。(中略)こぎかへる小船の人々の手火の影見えず成行程(なりゆくほど)、いとわびし。四人の心一つになる」

 長崎からフランス・マルセイユまで約2カ月に及ぶ船旅。佐賀城本丸歴史館の浦川和也企画学芸課長(51)は推し量る。「旅立ちの不安と寂しさ、重責への意欲がにじみ、出港を前にした高揚感も見てとれる」

 敷地面積が14ヘクタールにも及ぶ巨大な楕円形の展示会場は、セーヌ川河畔のシャン・ド・マルスにあった。現在、観光名所のエッフェル塔がそびえ立つ場所だ。

 日本の品々は物珍しさから注目を浴びた。「ヨーロッパ人の好奇心を集め、売店に群集して品物を買い求める人が引きも切らなかった」(鍋島直正公伝)。佐賀藩の物産も評判を呼んだが、展示品の用途が分からない来場者も多かった。とっくりをランプとして使ったり、丈夫な和紙で服を作ろうとしたり、喜劇さながらの光景があった。

 鎖国後、日本が初めて大々的に、自国の産品を西欧に披露したひのき舞台。そこに臨んだ佐賀藩派遣団の海外滞在は、万博で終わることなく、翌年半ばまで続く。佐野らは、藩から与えられた別の特命にも奔走していた。

*    *

 先取的な取り組みで幕末の日本をけん引した佐賀。人々は激動期をどう過ごし、明治という新時代に立ち会おうとしていたのか。2018年に明治改元から150年を迎えるのを前に、維新前夜の軌跡をたどる。

■万博と佐野常民

 1855(安政2)年に次いで2度目となったパリでの万国博覧会は、フランスのナポレオン3世が威信をかけて開催し、最先端の機械工業技術が披露された。売店や遊園地、レストランなどを大規模に配置した会場は、その後の万博のモデルにもなった。

 日本に関する出展で特に人気を集めたのは、日本家屋の茶屋だった。庭に日本女性の等身大の人形を置き、芸者が茶を入れたり、たばこをくゆらせたりした。地元の新聞が報じて評判を呼び、連日満員になった。

 佐野常民はパリ万博での経験を買われ、国内外の博覧会に深く関わっていく。明治政府として初めて参加した1873(明治6)年のウィーン万博(オーストリア)では、副総裁として日本産品の紹介に尽力した。国内でも、1877(明治10)年から開催された内国勧業博覧会で主導的な役割を果たした。

1855(安政2) 第1回パリ万国博覧会

1862(文久2) 第2回ロンドン万国博覧会

1866(慶応2) 薩長同盟

1867(慶応3) 第2回パリ万国博覧会・大政奉還

1868(慶応4、 明治元) 戊辰戦争始まる・佐野常民一行が帰国・明治に改元

1873(明治6) ウィーン万国博覧会

1877(明治10) 第1回内国勧業博覧会

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