大勢の見物客が見守る中、疾走する馬上から矢が放たれる=10月29日、武雄市山内町の黒髪神社

木立に囲まれた200㍍足らずの馬場には、大勢の見物客が集まり、的を射る瞬間を見守る

流鏑馬神事の前には、みこしの巡幸や稚児行列が馬場を通る

流鏑馬前の神事で披露された地元の女の子によるあでやかな舞

■農村が守り続けた伝統

古来、日本各地で語り継がれてきた説話の一つに「大蛇退治の伝説」がある。県内で最も知られているのは黒髪山のそれだろう。

平安末期の永万元(1165)年。田畑を荒らし、里人を苦しめていた大蛇を、強弓の使い手・源為朝らが倒す。ふもとの黒髪神社で毎年10月29日に奉納される流鏑馬(やぶさめ)は、無事退治できた「願成就」のお礼参りから始まったという。

実は、このとき退治された大蛇には諸説ある。巨大なヘビが実在したとか、雨乞い浮立に登場する龍神だとか。

ユニークなのが「異人」説。時期は前後するものの、鎌倉時代の元寇で北部九州に上陸し、黒髪山中に逃げ延びた蒙古人が、夜な夜な里へ下り、食糧を収奪して住民を脅かしていたとか。同胞ではない、正体不明の「誰か」を指した方言「ダイジャイ」が大蛇に転訛(てんか)したのだとか…。

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江戸時代、武士の修練として、祭りで盛んに行われた流鏑馬だが、明治維新に伴う武家社会の崩壊とともに、次第に姿を消していった。県内でその伝統を継承してきたのは、武雄(武雄市)、稲佐(白石町)、妻山(同町)といった、周辺のわずかな神社にすぎない。

「この辺りで流鏑馬が続いてきたのは、農村地帯で農耕馬と、それを自在に操れる農家がいたからでしょうね」と黒髪神社の宮司、黒髪和裕さん(63)。やがて農耕馬もいなくなり、知り合いの材木商に頼んで、山から木を切り出す時に使う馬搬の馬を走らせたこともあった。

重心の低い、地駄引きしかできないような馬を、それでも地元の農家はほとんど練習もせず上手に乗りこなした。人と馬の関係が濃密だった時代の記憶である。

その材木商も馬を手放し、乗りこなせる住民もいなくなった。20年ほど前から、流鏑馬の主役は白石町の乗馬クラブ「バルバロ」のメンバーが務めている。

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流鏑馬は、馬を走らせながら三つの的を射る神事で、出走するのは7回と決まっている。長さ2町(200㍍ほど)という黒髪神社の馬場は、戦時中の道路拡幅で一部接収される憂き目にあい、最初の「一の的」はほとんど助走区間がない。

それでも、続く「二の的」「三の的」を目がけて疾駆する栗毛の上から矢が放たれると、的中すれば見物客から歓声が湧き、外れれば「まだまだ」と声が掛かる。

走り終えた射手から弓を預かり、スタート地点の馬場元へと届ける「弓取り」役の住民は、見物客とユーモラスな掛け合いを演じ、会場を盛り上げる。伝統に厳格でありながら、農村の祭りならではのぬくもりも感じさせる。

大勢の見物客の中には近年、外国人の姿も目立つようになった。佐世保の米軍基地関係者が、周辺の焼き物巡りのついでに足を伸ばすのだとか。国を挙げてインバウンド(外国人観光客誘致)に力が注がれる時代。この異人たちを「大蛇」と呼ぶ者はいないだろう。

【余録】 子ども流鏑馬

7回の流鏑馬が終わると、地元の小学生による「子ども流鏑馬」が始まる。今年名乗りを上げたのは、山内西小6年の田中隼風(はやて)さん、山下勝勲(しょうくん)さん、太田翔貴(しょうき)さんの3人。約1カ月間、週末の午前中に練習を重ねてきた。止まって的を射るため、本式とはいかないが、「馬に乗って、矢を打つのは面白い」。いつかこの伝統行事の担い手として、馬場を疾走する日が来るかもしれない。

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