西洋砲術の導入を進めた武雄領主、鍋島茂義の肖像画(武雄市図書館・歴史資料館所蔵)

武雄市図書館・歴史資料館が所蔵しているモルチール砲。高島秋帆が製造し、武雄領主の鍋島茂義に譲ったと伝わっている=武雄市の同館

西洋砲術の大規模演習が実施された「岩田の台場」跡=神埼市神埼町尾崎

■武雄領主自ら砲術入門

 大砲が据え付けられていたと想像できないくらい、竹が生い茂っていた。神埼市神埼町尾崎にある「岩田の台場」跡。天保11(1840)年9月、佐賀城の北東に位置し、砲術練習所だったこの地で、前年に武雄領主を隠居した鍋島茂義(しげよし)が大規模な演習を実施した。佐賀藩10代藩主鍋島直正が立ち会う中、武雄の家臣団が西洋式大砲を披露し、発射音をとどろかせた。

 茂義が治めていた武雄領は、旧武雄市や旧杵島郡山内町に広がっていた。戦国大名の龍造寺家の系譜を引き、諫早家や多久家、須古鍋島家とともに「親類同格」とされた武雄鍋島家が領主を務めていた。大幅な自治が認められる一方で、歴代領主は佐賀本藩の請役(うけやく)(家老)も務め、藩政に深く関わっていた。

 茂義は寛政12(1800)年に生まれ、直正とは若いころから親交があった。14歳年下の直正の兄貴分的な存在といわれ、幼い直正にせがまれて描いたタカの絵が武雄市図書館・歴史資料館に残る。後に直正の姉の寵姫(ちょうひめ)と結婚し、義兄になる。直正が藩主に就任した後も信頼を寄せられ、たびたび意見を求められた。

 天保3(1832)年に武雄領主を継ぐと、すぐに本藩の長崎警備の総責任者「長崎御仕与方御頭人(おしくみかたおんとうにん)」に任命された。武雄市歴史資料専門官の川副義敦さん(62)は「茂義が蘭学(らんがく)や西洋式砲術に興味を持ったのはこの時期」と話す。

 長崎警備を担う佐賀藩には、英軍艦の侵入を許したフェートン号事件(1808年)の苦い記憶が刻まれていた。事件後、長崎港周辺に台場9カ所を増設するなど体制を強化したが、外国船の来航は全国で相次ぎ、長崎でも緊張を強いられる日々が続いていた。

 「茂義も、長崎屋敷の聞役(ききやく)(連絡係)から情報は得ていただろう」と川副さんは推測する。ただ、従来の和製大砲は、江戸期に大きな戦乱がなかったため性能は向上していない。構造も火薬の威力も西洋の大砲に比べれば劣っており、「これでは外国船に太刀打ちできないという報告も受けたのではないか」。信頼する家臣の平山醇左衛門(じゅんざえもん)を、長崎町年寄で当時の西洋式砲術の第一人者だった高島秋帆(しゅうはん)に弟子入りさせている。

 茂義自身が実際に長崎を訪れたのは総責任者就任から2年後で、その際、茂義自身も秋帆に入門している。武雄鍋島家の資料の一つ、「草稿」に記録がある。

 <十左衛門(茂義)儀、天保五年午九月、長崎罷越候節(まかりこしそうろうせつ)、高島四郎太夫(秋帆)面会、蘭砲術入門候事>

 ただ、領主という身分上、秋帆に直接、教えを請うことはできなかった。平山を「御稽古御取次(おけいこおとりつぎ)」に任命し、平山が秋帆から学んだことを茂義に取り次ぐ方法で修行をした。天保7(1836)年には「砲術御皆伝」を許されている。

 茂義は砲術を学ぶことと並行して、大砲の製造に向けた準備に着手した。当時の西洋式大砲を日本で初めて鋳造したとされる秋帆が武雄を訪問した折、鋳造所や試射場の場所の選定を巡り、助言をもらったと伝わっている。

 免許皆伝となったころに、武雄城二ノ丸(現在の武雄高校)に鋳造所を設け、武雄温泉に隣接する廣福寺には砲架や車台を製造する細工場(さいくば)を設置し、青銅砲の製造を始めた。寺院の梵鐘(ぼんしょう)製造などで青銅の鋳造技術はあったものの、大砲製造は初めての経験。試作品が暴発して家臣が負傷したり、試射に失敗したりしたという逸話が残っている。

 製造開始から半年後、茂義は領内の儒学者に、大砲に付ける銘を相談しており、このころに1門目を完成させたとみられる。

 くだんの岩田の台場での大規模演習の後、直正は茂義を佐賀藩の砲術師範に任命。西洋式砲術の導入を進めるため、藩士に修行を命じた。天保13(1842)年には佐賀城下に「蘭伝石火矢(いしびや)製造所」を設け、武雄家臣の指導のもと、銃砲などの製造に取りかかった。

=大砲4門が現存=

 武雄市図書館・歴史資料館には、鍋島茂義が武雄領主だったころの大砲4門が保管されている。いずれも青銅製で、砲弾と火薬は前から装填(そうてん)するタイプ。現在の武雄市文化会館の場所にあった武雄鍋島邸の敷地から掘り出された。

 そのうちの一つ、「モルチール砲」は、日本人によって初めて鋳造された西洋式大砲といわれる。高島秋帆が長崎で製造し、茂義に譲ったと伝わっている。砲身は長さ約60センチ。上部に武雄鍋島家の家紋「抱(だき)銀杏( いちょう )」がはめ込まれている。

 別の3門は武雄で鋳造された可能性が高い。「ボンベン野戦砲」と「ナポレオン式四斤(きん)野砲」は長さ1.5メートルほどの砲身で、砲弾の飛び方を安定させるため内側に線条が刻まれている。

 「試薬モルチール」は砲弾を飛ばす火薬の試験に使われていたとされ、砲身に青銅製の弾丸がはまり込んだ姿で発見された。

1808(文化5)フェートン号事件が発生。佐賀藩の長崎警備強化のきっかけになる

1830(天保元)鍋島直正が佐賀藩主に就任

1832(天保3)鍋島茂義が武雄領主に就任

1834(天保5)茂義が高島秋帆に入門し、西洋式砲術を学ぶ

1840(天保11)神埼の「岩田の台場」で西洋式砲術の大規模演習。直正が視察

 ■次回は、鍋島茂義の命を受け、佐賀藩の西洋式砲術導入に携わった平山醇左衛門に焦点を当てます。

このエントリーをはてなブックマークに追加