鹿島高校の校門として使われている鹿島城の赤門。鹿島藩の佐賀本藩への吸収合併計画が持ち上がった幕末、城内でもさまざまな議論が交わされたのだろう=鹿島市

吸収合併の意向を本藩から鹿島藩に伝えた文書(佐賀大学附属図書館蔵の「鹿島御家一件」)

佐賀藩の上級家臣団「大配分」

■一体性重んじ分断回避

 その通達は青天の霹靂(へきれき)だったろう。弘化5(1848)年2月10日。鹿島藩の江戸留守居役が、江戸の桜田にある佐賀藩の上屋敷に呼び出され、告げられた。

 10代半ばの鹿島藩主鍋島直賢は病気がちで、まだ跡取りがいない。財政難では家名も続かない。よって幕府への奉公を停止し、鹿島藩を「引請(ひきうけ)」、すなわち佐賀本藩に吸収合併する-。

 同じ内容がその日のうちに小城、蓮池の二つの支藩にも伝達された。藩内闘争が他藩に比べて少なかったとされる佐賀藩。支藩の存続を揺るがす通達はおのずと本藩との対立を呼んだ。

 鹿島など3支藩は、初代佐賀藩主鍋島勝茂の弟や息子を祖として江戸初期に成立した。藩主は大名として処遇されてはいたが、領地は本藩から与えられたもので、将軍との主従関係には曖昧さを残していた。江戸城門番などの「公儀役」を負担することで大名化を進めたものの、あくまで本藩の影響下にあった。

 鹿島藩政は、家臣による米売買の不正が発覚するなど別の問題も抱え、本藩の介入が強まっていた。吸収合併の話は30年前の文政元(1818)年にも浮上したが、3支藩の反対運動で頓挫。それでも、財政援助が恒常化していた支藩の存在を重荷に感じていたのだろう。長崎警備の強化も余儀なくされ、財政が厳しくなっていた本藩は、合併話を再び切り出した。

 鹿島藩の江戸詰めの家臣は国元への連絡を急いだ。江戸にいた小城藩主鍋島直堯(なおたか)らとも協議し「蓮池藩とも相談したいので、それまでは(幕府に指図を求める)伺いを猶予してほしい」と本藩に要望したが「三家の意見を聞いたのではない」。願書は突き返され、幕府に伺いが提出された。

 支藩にとって、幕府への奉公停止は、大名としての家格を失うことを意味する。直賢の2代前の鹿島藩主の直永は弟の佐賀藩主直正に対し、本藩と支藩、幕府の関係を定めた「三家格式(さんけきゃくしき)」に反すると主張した。

 天和3(1683)年に制定された三家格式は、本藩と支藩の上下関係を明確にしつつ、支藩が大名として扱われることに本藩が口出しをしないと規定していた。3支藩はこれをよりどころに団結し、引請中止の願書を本藩に提出した。

 本藩が強硬姿勢を崩さない中、幕府が下した結論は吸収合併ではなく、公儀役の5年間免除だった。こうすれば、支藩は家格を失うことなく財政負担が和らぎ、本藩も支藩への援助額を減らすことができる。

 「三家格式は、本藩と支藩が『家』としての一体性を保つために制定された側面がある」。佐賀藩政史に詳しい昭和女子大学准教授の野口朋隆さん(45)はこう指摘し、鍋島家の従来の関係性を維持する三家格式が重んじられる結果になったとみる。

 折り合いをつけさせた幕府側の思惑も透ける。吸収合併を認めて大名が減れば、公儀役の担い手も減る。そうした事態を避けたかったのかもしれない。

 「上下関係などお互いにいかがわしく思うこともあったと思うが、そのようなことは一切打ち捨てて心腹を開くつもりだ」

 直正は吸収合併騒動に先立つ天保14(1843)年、3支藩などの重臣を集めてこう宣言している。

 直正は吸収合併を果たせなかった代わりに、鹿島藩政を「差配」する家臣を送り込んでいる。難局の中、一体感をそぐことは避けたかったに違いない。

 ロシアのプチャーチンが長崎に来航した翌年の安政元(1854)年には、長崎の警備強化を目的に、3支藩の公儀役をさらに5年間免除させることに成功している。欧米列国の脅威に直面する中、3支藩を警備に組み込むことで藩政基盤の強化につなげた。

■上級家臣団は11家

 支藩の当主である小城鍋島家、蓮池鍋島家、鹿島鍋島家の三家をはじめ、佐賀藩では「大配分」と呼ばれる11家が上級家臣団を構成した。3家に加え、「親類」と「親類同格」の区分があり、親類同格4家は龍造寺一門が名を連ねた。

 家老などに就き、大配分に準じる「大配分格」の家臣もいた。大配分・大配分格は大幅な自治が認められており、独自の法令を発布でき、裁判徴税権も持っていた。これ以外の家臣は「小配分」と呼ばれ、藩の影響力が強く自治権が弱かった。

 3支藩以外に、旗本として将軍に仕えた「旗本分家」も存在した。江戸屋敷の地名から「餅木(もちのき)鍋島家」と呼ばれ、佐賀藩主との関係を保ちながら将軍に仕えた。

=年表=

1683(天和3) 「三家格式」が制定される

1818(文政元) 佐賀本藩が鹿島藩の吸収合併を計画し、失敗

1848(弘化5・嘉永元) 再度、鹿島藩の吸収合併を試みるが失敗

1854(安政元) 3支藩の公儀役が5年間免除される

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