流木・伊万里の市街地を埋め尽くした流木(1967年・昭和42年7月10日)

大川内山・昭和42年7月9日の集中豪雨で大打撃を受けた伊万里市大川内町の大川内山(1967年・昭和42年7月19日撮影)

水没した市役所・伊万里市役所(当時)の外庭では、一瞬のうちに車も泥海に水没した(1967年7月9日撮影)

泥海・一夜明けても泥海が続く伊万里川河口近くの水田(1967年7月11日撮影)

 1967(昭和42)年に伊万里市の中心街や大川内山の窯元などに甚大な被害をもたらした水害「42水」から9日で丸50年となった。日曜日の昼間に降り始めた豪雨はわずか2時間で152ミリに達し、河川は瞬く間に増水して濁流となって襲いかかった。死者12人、重軽傷者435人、全壊・流失家屋は74戸。市は7月9日を「市民防災の日」に定めて記憶をつないできたが、当時を知る人からは風化を懸念する声も上がっている。

 雨は正午前後から降り始め、当時の佐賀新聞は「一メートル先も見えない“雨のカーテン”」と伝えた。大雨洪水警報発令は午後1時。川沿いにあった旧市役所は既に孤立した上に通信手段を奪われ、機能不全に陥っていた。焼き物積み出し港として栄えた白壁土蔵の街並みは失われ、開店して間もない伊万里玉屋も泥土にまみれた。

 豪雨被害は伊万里焼の窯元群も襲った。虎仙窯の川副秀樹さん(63)は「父親が『逃げろ』と言って雨の中を避難した。川の水はどす黒くて見たこともない色だった」と同時の光景を振り返る。翌日、家に戻ると建てたばかりの窯が基礎も残さず消えていた。大川内町だけで子ども2人を含め3人が亡くなった。

■刺さる流木

 九死に一生を得た人もいる。伊万里町で同居していた祖母と、当時4歳と生後7カ月のいとこを亡くした女性(58)は、その日は偶然父の職場に連れられて出掛けていて難を逃れた。家に戻ると祖母たちがいた離れは流され、残った母屋は流木が突き刺さっていた。

 「仲良しだったから思い出したくもなかった。それでも今ごろになって思い出すようになった」。かつての実家は河川の拡幅工事で跡形もない。当時の被害を知る人も少なくなり、記憶が薄れていくことに一抹の不安も感じる。「水は本当に怖い。その実感がどれほど伝わるか」と女性。叔父(亡くなったいとこの父)が子どもたちを弔うために建てた観音像は今、東山代町の寺に移され、毎年手を合わせている。

■街並みの原型

 この年は伊万里港が開港し、関連の記念行事が予定されていたが、災害対応で延期や中止に。真夏は一転して干ばつに襲われた。それでも水害をきっかけに伊万里川の川幅拡張や市役所の高台移転が進み、現在の街並みの原型ができ上がった。大川内山も伊万里を代表する観光名所として再生した。

 伊万里市は急傾斜地が多く、2006年にも観測史上最大の1時間99ミリの集中豪雨で3人が死亡するなど、災害は遠い過去の歴史ではない。福岡や大分を襲った九州北部豪雨も、自然災害の脅威をまざまざと見せつけた。半世紀の節目をきっかけに、いま一度、防災への意識を高めたい。

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