戦乱期に諸勢力が支配を目指した大宰府政庁付近。その真南に基山(きざん)=中央奥=がある

 南北朝争乱期の1350(観応元)年、北部九州は南朝方の「懐良(かねよし)親王・菊池武光」、北朝方の「鎮西管領一色範氏(いっしきのりうじ)」、足利尊氏の幕府支配に造反する「足利直冬(ただふゆ)・武藤(少弐)頼尚」の3勢力が三つどもえの争いを繰り広げる場となる。

 東肥前では養父郡(鳥栖市)の立石源三郎、三根郡(みやき町)の恵利氏俊・矢俣超成・板部成基らが直冬・頼尚勢に従い、後藤・深堀・龍造寺・於保・高木ら肥前勢の多くがこれに同調する。

 1351(観応2)年、京都で足利尊氏と対立していた直冬の伯父・足利直義が敗れて北陸へ逃れ、翌年の文和元年2月、鎌倉で暗殺される。

 同年5月、直冬・頼尚勢は太宰府観世音寺で幕府軍の一色勢に敗れて山浦城(鳥栖市)にろう城するが、直冬は南朝について九州を去り、武藤頼尚も南朝懐良親王につく。

 北部九州では北朝幕府方の鎮西管領一色範氏と南朝征西府(せいせいふ)懐良親王・菊池武光・武藤頼尚が対立し、龍造寺・千葉・江上ら肥前勢の多くが頼尚から離れ、北朝方一色氏に従う。

 これら戦乱の中で、鎌倉時代から続く「荘園」が変容して「神辺庄萱方(こうのえのしょうかやかた)村」などの「村」が成立する。4日の鳥栖歴史研究会(連絡先・市教委)では中世村落萱方村を探訪する。(高尾平良・鳥栖歴史研究会常任講師)

このエントリーをはてなブックマークに追加