高島秋帆が江戸の徳丸原で実施した砲術演習を描いた「高島四郎太夫砲術稽古業見分之図」(板橋区立郷土資料館所蔵)

小高い丘の上にある平山醇左衛門の墓の前に立つ武雄市歴史資料専門官の川副義敦さん=武雄市山内町鳥海

西洋式砲術の基本教書として用いられた「攻城阿蘭陀由里安牟相伝」。平山醇左衛門が書写したものが唯一、現存する(武雄市図書館・歴史資料館所蔵)

■貢献者、藩を守る犠牲に

 武雄領主の鍋島茂義(しげよし)が西洋式砲術の導入を巡って重用した家臣、平山醇左衛門(じゅんざえもん)は文化7(1810)年、武雄鍋島家の下級家臣の家に生まれている。家督は兄が継いだが、平山は幼少期から10歳年上の茂義のそば役を務めていたため、14歳のころに当時の領主茂順(しげより)から士籍を許された。

 平山は、現存する多くの史料の中で「平山山平」と記述されている。上から読んでも下から読んでも同じ名で、茂義が付けたあだ名だといわれており、領主と家臣という関係以上の親密さがうかがえる。

 その茂義から、長崎の町役人で西洋式砲術の第一人者だった高島秋帆に師事することを命じられた平山は、天保3(1832)年の8月に入門している。

 このときの長崎滞在は2、3カ月ほどで、11月下旬には江戸に赴いた。修業を終えたわけではなく、西洋式砲術の基本教書として用いられていた「攻城阿蘭陀由里安牟(オランダユリアム)相伝」を江戸で書写するなど、研さんを重ねていたようだ。

 茂義自らが秋帆に入門すると、「御稽古御取次(おけいこおとりつぎ)」として、秋帆から学んだ内容を茂義に伝えた平山。天保7(1836)年、茂義が「砲術御皆伝」を許されたときの平山の心境を、武雄市歴史資料専門官の川副義敦さん(62)は想像する。「平山自身は免許皆伝を受けていない。そうしたことに関係なく、自分のこと以上に喜んだだろう」

 同じ年、茂義は領内に大砲の砲術を専門とする部署「御火矢方組(おんひやかたぐみ)」を置き、平山を責任者に任命し、家臣の指導に当たらせた。同時期に始まった大砲の鋳造でも指導的役割を担わせた。

 平山は佐賀本藩でも存在感を増していく。岩田の台場での演習後、10代藩主鍋島直正から毎月15日間、佐賀屋敷に詰めるように命じられ、藩士を指導した。銃砲を製造した「蘭伝石火矢(いしびや)製造所」の現場責任者も任せられている。

 秋帆との師弟関係は続き、秋帆が幕府の老中、水野忠邦に西洋式砲術の演習を命じられた際には江戸まで随行した。徳丸原(とくまるがはら)(現在の東京都板橋区内)での大演習で、門弟の一人として砲声をとどろかせている。

 こうして普及に貢献していた平山の人生は突然、暗転する。

 天保13(1842)年、秋帆が長崎奉行所に捕らえられた。密貿易で武力を蓄え、幕府への謀反を企てているという身に覚えがない罪状だった。江戸で取り調べられ、息子やまな弟子の肥後藩士も捕まった。

 後に「高島事件」と呼ばれるこの疑獄は、秋帆から砲術を学んだ佐賀藩や武雄領にも激しい動揺をもたらす。秋帆との関係が幕府に詳しく伝われば、嫌疑が及ばないとも限らない。

 翌年、平山が逮捕される。武雄鍋島家の文書「武雄領着到」はこう記す。

 <卯十一月二十一日、無調法之(これ)有り、城木之口に於(お)いて生害仰(しょうがいおおせ)付けられ候(そうろう)>

 「行き届かなったため、死刑を言い渡された」とだけつづり、いきさつどころか罪状にも触れていない。

 ある佐賀藩士の日記には「主君を批判する文書をばらまいた罪で捕らえられた」とあるが、茂義との関係を考えると信じ難い。川副さんは、藩を守るために平山に全てを負わせたのではないかと推測する。「秋帆に最初に入門し、最も親しかった平山一人を犠牲にして、難局を乗り切ろうと考えても不思議ではない」

 政情の不安定さが増す中、幕府の動きに過敏に反応したのだろうか。平山は武士の身分を剥奪された上、打ち首という重罪人の処刑法で33年の生涯を閉じた。

 処刑を命じた茂義が、若いころから親しみ、一緒に砲術を学んだ家臣の死に際して何を思ったのか、知るよしもない。ただ、平山家は取りつぶしにならず、茂義は後に墓の建立を許し、子孫に供養を命じたという。「重罪人」へのこうした処遇は異例中の異例だった。

=師を陥れた疑獄=

 平山醇左衛門の師、高島秋帆が謀反の疑いをかけられた「高島事件」は、天保10(1839)年に蘭学者の高野長英や渡辺崋山が弾圧された「蛮社の獄」と並び、天保年間の二大疑獄とされる。

 事件は、蘭学嫌いで幕府守旧派の江戸南町奉行鳥居耀蔵(とりいようぞう)が、西洋式砲術で成功した秋帆を疎み、長崎奉行と結託して罪に陥れたというのが通説だ。老中の水野忠邦が、国内随一の貿易都市だった長崎の改革を計画し、長崎の実権を握っていた秋帆ら町役人の排除を狙ったという説もある。

 高島家は断絶となり、秋帆は重罰が予想されたが、水野や鳥居が失脚するなど幕府内の混乱もあり、吟味は長引いた。弘化3(1846)年にようやく、武蔵国岡部藩(埼玉県深谷市)への幽閉が決まった。罪状は謀反ではなく、「身分をわきまえず、息子の嫁に長崎奉行の娘をもらった」というものだった。

1832(天保3) 平山醇左衛門が高島秋帆に入門

1836(天保7) 鍋島茂義が西洋式砲術の免許皆伝。武雄での砲術訓練や大砲製造が本格化

1841(天保12) 江戸・徳丸原で高島秋帆が砲術演習

1842(天保13)「高島事件」で秋帆が捕らえられる

1843(天保14) 平山醇左衛門が処刑される

 ■次回は、佐賀藩が軍事力を中心に近代化を進めようとする中、農村で取り組んだ政策をたどります。

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