明治6年に描かれた「精煉方略図」。鍛冶所や鋳物場などの施設のほか、田中近江や中村奇輔などの居宅が記されている(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

略図を手掛かりに、昭和初期に描かれた「佐賀藩精煉方絵図」。中央の広場で蒸気車の試験が行われている様子などを描き込んでいる(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

精煉方で製造された「蒸気車雛(ひな)形」。ボイラーが搭載されており、実際に動いた(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

■技術者集め精煉方設置

 略図に目を凝らすと、実験場としても使われた広場を取り囲むように、さまざまな施設が立ち並んでいる。幕末佐賀藩の研究開発拠点で、理化学研究所に例えられる「精煉方(せいれんかた)」。約1万7千平方メートルの敷地に、医学系の製薬所をはじめ、工学系のガラス製造所や鋳物場、鍛冶所、さらには化学系の硫酸工場や硝石小屋…。科学者や技術者の住まいもそばに整えられ、作業に没頭できる環境を目指していた様子がうかがえる。

 精煉方は嘉永5(1852)年、藩内の産物の流通・販売や殖産興業を担当する「国産方」の一部として、現在の佐賀市多布施に設置された。当初の目的は、反射炉で鋳造した鉄製大砲で使う火薬の研究や開発。10代藩主鍋島直正の意を受けて設立されたといわれ、施設は順次、増設されていった。

 計画は早くから温められていたのだろう。藩外に遊学していた佐賀藩士佐野常民は設置の1年前、科学者の中村奇輔(きすけ)、技術者の田中近江(おうみ)(久重)・儀(ぎ)右衛(え)門(もん)父子、蘭学者の石黒寛次(かんじ)の4人を連れて京から帰藩している。

 佐野は4人とともに京の塾で学んでおり、それぞれの能力の高さは知っていた。佐賀藩の重臣らは、藩外の人材をそのまま登用することに難色を示したが、佐野が熱心に説得し、受け入れを認めさせている。

 4人が佐野の誘いに乗った理由は不明だが、「新分野の研究には多額の資金が必要で、自力では難しい。佐賀藩のお金で研究できるのが魅力的だったのでしょう」。県立図書館近世資料編さん室の松田和子さん(45)はこう推測する。

 精煉方は設置から1年あまりは、目立った成果を挙げられなかった。経費削減を理由に、廃止を訴える意見が藩内から出た時期もあった。準備に携わった佐野はこのころ、長崎で私塾を開き、佐賀には不在だった。

 「鍋島直正公伝(こうでん)」には、廃止論に対する直正の姿勢が記されている。

 <公(直正)はいつも、是(これ)は吾人の道楽なれば制限する勿(なか)れとて、特に存続せしめられたりし>

 研究の必要性を感じていた直正は、精煉方を自身の「道楽」と位置付けることで、家臣が口を挟めないようにした。その一方で、技術者をまとめることができる人材として佐野を呼び戻し、責任者に据えている。精煉方はこのとき国産方から独立しており、本格的に稼働し始めたといえる。

 研究開発分野は火薬づくりにとどまらず、多様な分野に広がり、総合研究所の様相を呈していく。大砲の新設に伴って増えたやけどの治療薬。新型小銃で使用するドンドル管(雷管)。ガラス細工やエレキテル(電信機)-。田中父子は、蒸気で砲弾を飛ばす蒸気砲の製造にも挑んだ。

 安政年間(1854~60年)には、蒸気車や蒸気船のひな型を手掛け、中村奇輔によってさまざまなタイプが造られた。現存するひな型はボイラーの構造が全て異なり、試行錯誤を重ねた過程が想像できる。

 「精煉方が設置された時期はまだ鎖国が解かれておらず、西洋の物品を勝手に輸入することは禁じられていた。いろいろと自分たちで作らざるを得なかった」。松田さんは当時を推し量りつつ、結果的にプラスに働いたとみる。「外国から買った方が安いものでも工夫を重ねながら作ったことが、科学技術の蓄積につながった」

 精煉方を巡っては、現存する製品の数々が多岐にわたる活動内容を示す一方、運営実態に関する直接的な記録は確認されていない。最先端の研究を外部に漏らさないように記録が残されていないとも、明治初期の士族の反乱(佐賀の乱、佐賀戦争)の際に焼失したともいわれている。

 佐野も日記などに書き残していないといい、佐賀市の佐野常民記念館の学芸員山口智世さん(29)は「佐野が精煉方に触れたのは、後年の演説で、直正の命で事業費100万両を使ったという発言があるだけ」と説明する。

 多布施に拠点を置いてきた精煉方は文久元(1861)年、海軍所が設置された三重津に進出。日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造も手掛けていく。

■からくり儀右衛門

 佐野常民が精煉方にスカウトした他藩の人材の中で、ひときわ異彩を放っていたのが田中近江(久重)だ。「からくり儀右衛門」「東洋のエジソン」などと呼ばれ、後の総合電気企業「東芝」の創業者になった。

 田中は寛政11(1799)年、久留米藩生まれ。幼いころから発明好きで、生家近くの神社の祭りで「からくり人形」を披露して評判になったという。

 20代のころ、有名なからくり人形「弓曳(ゆみひ)き童子」などを製作し、からくり師として関西で成功をおさめた。「万年時計」「無尽灯」なども発明し、優れた職人に与えられる「近江大掾(おうみだいじょう)」の称号を受けている。

 精煉方に11年間勤めた後は久留米藩に呼び戻され、大砲や小銃の製造に取り組んだ。廃藩置県後は東京に進出。明治14(1881)年に亡くなるまで好奇心は衰えず、80歳を超えても発明に没頭したという。

=年表=

1850(嘉永3) 鉄製大砲製造のため、築地反射炉着工

1852(嘉永5) 鉄製大砲で使う火薬の研究開発を目的に精煉方を設置

1853(嘉永6) 鍋島直正が佐野常民を長崎から呼び戻し、精煉方の責任者に据える

1871(明治4) 廃藩置県に合わせ、精煉方が藩の役所から鍋島家経営に変わる

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