御願成就のお礼として玩具の刀が奉納されている七郎権現の洞窟=唐津市と糸島市の県境

■藤原広嗣の乱伝え

 奈良時代の天平12(740)年、北部九州で朝廷に弓を引く大きな内乱が起こった。藤原広嗣の乱である。

 広嗣は当時朝廷で絶大な権力を振るっていた藤原4兄弟の3男、宇合(うまかい)の長男である。4兄弟が天平9(737)年に相次いで病没すると、反藤原勢力の橘諸兄(たちばなもろえ)が遣唐使組の下道(しもつみち)(吉備)真備、僧玄〓(日ヘンに方)(げんぼう)と結託し、藤原一族の勢力を封じようとした。そのため広嗣を大宰少弐(だざいのしょうに)に任じ、大宰府に赴任させた。

 広嗣はこれを左遷として受け取り、真備と玄〓(日ヘンに方)の悪行について朝廷に上奏文を送った。しかし諸兄はこれを朝廷に対する反逆と捉え、官軍を九州に送って挙兵した広嗣軍の鎮圧を図り、結果、広嗣は死罪となった。

 乱の後半は唐津が舞台となっている。そしてこの地には悲しい物語が残っている。唐津市と福岡県糸島市との県境付近にある「七郎権現」の伝説である。

 広嗣の臣下の右馬七郎が唐津での戦の時、広嗣とともに奮戦したが、死闘の末に意識を失い、戦場で倒れてしまった。その後、七郎は近くの洞窟に身を潜めた。寒い時期だったので官軍が近づいてきた時、思わず咳(せき)をしてしまった。再び奮戦するも、力尽きて自害の道を選んだ。

 地元の人々は七郎をしのんで「七郎権現」を祭り、風邪、咳止め、喘息(ぜんそく)にご利益があるとして参拝者があり、御願成就の際は木刀(玩具の刀)を奉納するという風習がある。

 広嗣本人の伝説としては、怨霊となって玄〓(日ヘンに方)の前に現れたことなどが『今昔物語』や『平家物語』に記されているので、興味のある方は一読をお薦めする。

 たなか・まこと フリーの編集者で、民俗学、歴史を中心に編集・執筆活動を行う。1954年生まれ。唐津市桜馬場。

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