パリ万博に出品する焼き物を梱包した荷師の技術を推し量った有田町歴史民俗資料館の尾﨑葉子館長=西松浦郡有田町

「第2回パリ万博への出品は有田焼が発展する一つの転換点になった」と語った県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長=西松浦郡有田町

第2回パリ万博に派遣された小出千之助が、現地から千住大之助に送った手紙「小出千之助書翰(写)」の一部(個人蔵)より

■有田焼、輸出発展の契機に

 窯元や焼き物店が軒を連ねる通りから、細い路地に入った裏通り。陶片や窯道具の廃材を赤土で塗り固めて造られたトンバイ塀が続く先の山裾に、その寺はある。西松浦郡有田町上幸平の西光寺。1866(慶応2)年、ここに地元の窯元や商人から集められた陶磁器がずらりと並んだのだろうか。70畳ほどの本堂が想像をかき立てる。

 佐賀藩が出展した第2回パリ万国博覧会(1867年)は、参加決定から出品物を船に積むまでの準備期間が短かったといわれている。有田焼は新たに製品を作る時間が限られ、在庫の中から良品を選んだ。有田町の郷土史家・中島浩氣(1871~1955年)の労作で、肥前陶磁器研究の基礎資料になっている『肥前陶磁史考』には「代官が窯元らに通達して西光寺に在庫品を陳列させ、藩から出張した佐野常民らがふさわしい品を選んだ」と記述されている。

 有田焼は、藩の主要産業の一つだった。輸出が始まったのは17世紀半ば。中国の明朝が滅び、清朝が建国される混乱の中、輸出が一時的に制限されて品薄になった中国製陶磁器の代用品として、オランダ商人が有田焼に目をつけた。

 有田町歴史民俗資料館の尾崎葉子館長(61)によると、輸出は衰退期を経て1841(天保12)年から隆盛を迎える。藩の許可を得た有田の豪商が手掛け、幕末も続いていた。尾崎館長は「藩主の鍋島直正は、長崎警備の関係で外国の情報を入手しやすく、ヨーロッパで売れると判断したのでは」と推測する。

 輸出品は国内向けの日用雑器とは異なり、花瓶やつぼ、大皿などの装飾品が主流だった。図柄は武者絵や美人画など「日本趣味」のものが多く、佐賀県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長(64)は「オランダ人の好みだったのだろう」と話す。製作が難しい大型製品の注文に応えるうちに窯元の技術も上がり、幕末には高さ150センチを超える花瓶や、直径1メートルもある大皿も製作できるようになった。

 万博が開かれたフランスまでは数千里の海路。途中で大量に割れたのではないかと想像するが、有田には「荷師」という荷造り専門の職人がいて、わらの俵に入れて陶磁器を傷めずに運ぶ技術があった。国内での運搬は通常、わら俵だけだったが、輸出用はさらに木樽(きだる)や木箱に入れて梱包(こんぽう)したという。『肥前陶磁史考』には「西光寺付近の民家を数軒借り受け、厳重にも二重箱に詰め込んだ」とある。「パリに着いた際に割れていたという記録はないから、無事に届いたのでしょう」。尾崎館長はこう話し、荷師の技に感心する。

 こうして万博を彩った有田焼だが、売れ行きは必ずしも良くなかったようだ。派遣されていた小出千之助が万博終了後の慶応3年11月29日付で、直正の側近に当たる千住大之助に送った手紙(千住家文書)はこう記す。

 <ようやく百箱ほど売れ、残りは四百箱あまりにこれあり>

 花瓶などがいい値段で売れた一方、皿や茶わん類は売れ残り、「運びにくくやっかいだ」と苦労を書きつづっている。

 ほろ苦い万博デビューだったかもしれないが、「この出品は有田焼が発展する一つの転換点になった」と鈴田九州陶磁文化館長はみている。分かりやすい日本らしさが前面に出ていた輸出品はその後、欧州の消費者のニーズを取り入れ、花鳥風月などより上品で魅力的な模様に変化していく。他国の品々に触れた経験は、明治維新後の西洋絵の具や石炭窯など新たな手法の導入にもつながっていく。

 売れ残った陶磁器を、捨て値で売るなど残務処理に当たった小出。千住に送った慶応3年12月23日付の手紙では、欧州向きの品の手本や図面を送ると伝えつつ、有田焼貿易の有望性を報告している。

 <これまたきっと、後来繁昌(はんじょう)つかまつるべくと存じ奉(たてまつ)り候(そうろう)>

  ■次回は、有田焼と同じくパリ万博に出品するため、領内から集められたというろうそくの原料「白蝋(はくろう)」を取り上げ、産地だった鳥栖地域の様子とともに紹介します。

=1枚だった貿易鑑札=

 昨年、創業400年の節目を迎えた有田焼。江戸時代に佐賀藩の主要産業に育っていったとされ、有田町歴史民俗資料館の尾崎葉子館長は「幕末のころは200軒ほどの窯元があった」と説明する。

 有田焼は海外でも販売されたが、衰退期を経て1841(天保12)年に再開された輸出では、藩の許可証に当たる「貿易鑑札」が必要になった。鑑札は1枚しか交付されず、有田の豪商だった久富家が当初、一手に引き受けた。1856(安政3)年には、別の豪商の田代家に譲渡されている。

 こうした貿易の一元化は1868(明治元)年に終わる。独占状態に不満を持っていた有田の別の商人が藩に訴え出て、鑑札を10枚に増やすことになった。尾崎館長は「鑑札を持った10人が、廃藩置県で藩がなくなった後も貿易の中心を担っていった」とみている。

1841(天保12)久富家に有田焼の貿易鑑札を交付

1856(安政3) 田代家に貿易鑑札を譲渡

1866(慶応2) 佐賀藩がパリ万博参加を決め、佐野常民らが準備に奔走

1867(慶応3) 第2回パリ万国博覧会

1868(明治元) 明治に改元

          貿易鑑札を10枚に増加

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