他藩との比較を交えながら、佐賀藩の先見性などを語る歴史学者の磯田道史さん=佐賀市のアバンセ

■新政府運営の中心は佐賀 藩主直正の「産業革命」奏功

 来年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の原作者の林真理子さんや脚本を手掛ける中園ミホさんと、西郷隆盛の家族が眠る青山墓地(東京都港区)を歩いた。その際、佐賀出身者の墓が目立つことに気づかされた。明治維新という「革命」を起こしたのは薩摩藩と長州藩だが、新政府の運営の中心になったのは佐賀藩だった。技術者らに佐賀ゆかりの人が多く、明治期の霞が関では佐賀弁が飛び交っていたのだろう。

 佐賀藩は主君への忠義、統制が強い中世の気風を残しつつ、最先端の科学技術を有した点が他藩とは大きく異なる。10代藩主の鍋島直正が天保期(1830~1844年)に改革を始め、石炭や陶磁器輸出の殖産興業に取り組み、日本で初めて近代軍事工業を確立させた。長崎港を警備して西洋に触れていたことが大きい。英国軍艦が侵入したフェートン号事件(1808年)も改革を急いだ背景にある。大人数による合議制を採らなかったので、政策決定でもたつかなかった。重臣3人がスピード感を持って決め、それぞれの担当分野に責任を持っていた。

 直正が優れていたのは、西洋の強さが科学技術にあることを見抜いていた点だ。軍艦や大砲を造るには工業力が必要で、西洋の学問を学んで藩内で産業革命を起こした。鉄を精錬する反射炉や、蒸気船を国内で初めて実用化したのも、表面だけでなく裏まで分かる一級のリーダーだったからだ。作州(現在の岡山県北東部)の人物が著した書物「人国談」では、佐賀藩について「直正が英明で、大砲と船舶を造るなど軍事では西日本一。上級武士でさえ木綿を着てぜいたくを恥とし、実学を奨励した」と記している。

 佐賀藩は35万石だったので、通常なら兵力は1万数千人程度。だが、兵農分離しておらず、3万人は動員できたとされる。九州という立地もあり幕府にとっては攻めづらかった。そのため、関ケ原の戦いで徳川家に一部敵対した外様大名だったのに、国替えが実施されなかった。「所替えを申し渡された時は槍先(やりさき)にかけて渡せ」という藩祖の鍋島直茂の遺言もあり、文武を鍛えて武器を備える気風があったのだろう。

 幕藩体制の当時は、身分が高い人が世襲で要職を務めるのが一般的だったが、佐賀藩は実力主義だった。学問ができた武士なら誰でも藩校の教師になれた。藩校は教育機関というだけでなく、人材登用の仕組みで、藩の幹部が常駐して学生の優劣を見極めた。秀才は役人に抜てきし、成績が振るわない人は俸禄(ほうろく)を削減した。こうしたシステムは西洋の士官学校制度をまねたのではないだろうか。

 武雄領を治めた鍋島茂昌にも先見の明があり、日本最強の軍隊をつくり上げた。戊辰戦争では歩兵1千人が派遣された。彼らの装備はスペンサー銃550挺(ちょう)、アームストロング砲と4.5ポンド臼砲(きゅうほう)がそれぞれ6門。米国軍隊と戦っても勝てるような最新の装備で、戦争を短期間で終息させることにつながった。他藩の戦死率は4~7%と高かったが、武雄隊は0.6%の6人にとどまった。

 近代化を進めた佐賀藩は「良い考え」を取り込むことに優れていたと感じる。西洋の学問や科学技術、兵器、軍隊…。ただ、これから佐賀を活性化するには「人まね」ではなく、価値を創出することが求められる。「今、大事なこと」「自分がやりたいこと」を始め、地域はそれを応援していこう。

このエントリーをはてなブックマークに追加