「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦(ばかばか)しい。重大に扱わなければ危険である」-。芥川龍之介が『侏儒の言葉』に書いている◆人生の重みをどうとらえるかは人それぞれだろうが、心に火をともし続けられるかが肝心だろう。芥川は「人生の競技場に踏み止(とど)まりたいと思うものは創痍(そうい)を恐れずに闘わなければならぬ」とも。こちらは、まさに満身創痍の土俵だった。新横綱・稀勢の里である◆初日から全勝街道まっしぐら。このまま突っ走るかと思われた残り3日に、魔物が潜んでいた。土俵から転げ落ちた瞬間、左肩を押さえてうめいた。救急搬送され、翌日は強行出場したものの、わずか2秒で力なく押し出された。そして迎えた千秋楽。待ち構えた観客は、土俵に上がっただけでも「よくやった」と拍手を送る気でいただろう◆初優勝での横綱昇進には、歓迎の一方で「下駄を履かせた」との批判がつきまとってきた。その声を封じるだけなら、優勝せずとも十分だったに違いない。かつて、横綱白鵬が稀勢の里を評して語った。「強い人は大関になる。宿命のある人が横綱になる。彼には何か足りない」と◆手負いの新横綱が、星の差ひとつを逆転して賜杯をつかみ取る。痛みを恐れず、最後まで踏みとどまった覚悟が奇跡を呼び込んだ。やはり、宿命の人である。(史)

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