藩政期、基肄養父の中心として代官所が置かれた田代町=鳥栖市

■住職妻帯で大興善寺へ

 玉岡誓恩師の大興善寺入山から2年の歳月が流れ、生活面もようやく安定の兆しが見えてきた1873(明治6)年9月、大興善寺の寺総代と鹿毛良鼎(りょうてい)氏の2人が訪ねてきた。

 2人は誓恩師に、田代(たじろ)町(現鳥栖市田代)の天台宗昌元寺の御霊堂に安置されている対馬藩宗家累代の位牌(いはい)を大興善寺に移させてほしい、という話があっていることを告げ、「大興善寺としても名誉なことであり、一度、総代の皆さんにお諮りしお引き受けする方向で話を進めてまいりたいが…」と考えを添えた。

 藩政期、基肄養父(きやぶ)と称されたこの地は対馬藩・宗家の飛び地で、代官所のある田代町の昌元寺は宗家歴代藩主の位牌を奉安し、近くの浄土宗西清寺と共に、領内では最高の寺格を誇示していた。その昌元寺住職の妻帯は、地域の人々の話題になっていた。

 明治政府は1872(明治5)年4月25日、太政官布告第133号(「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」)を公布し、国として僧侶の妻帯肉食蓄髪を許した。だが、開祖の親鸞以来、妻帯を認めた浄土真宗等を除き、独身であることが高僧の条件とする慣習は、旧藩主・宗家の意向となって表れたのであろう。(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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