道祖神が奥に鎮座する「太閤道一里塚」=唐津市佐志

◆「佐志坂峠」結界の場所か

 豊臣秀吉は文禄・慶長の役(1592~98年)の前線基地として名護屋城を築き、人や物品移送のため、名護屋城大手門から大坂までの道路「太閤道」の整備を行った。

 唐津では名護屋城から1里(4キロ)ごとに松、檜(ひのき)を植え、塚を築き、休憩の場所とした。そして今、唐津市佐志の通称「佐志の辻」の小さな木立の中に、太閤道一里塚と道祖神(どうそしん)が祭られている。

 石碑によれば、「(秀吉は)大阪(坂)との連絡のために名護屋城大手門を起点にして一里ごとに早飛脚二名を駐在させ、六日間で連絡を取った。この地は、起点から三番目の一里塚にあたる」とする。

 秀吉は名護屋城滞在中、大坂城の北政所に「九月廿五六日頃には、大坂へ参り申すべく御まちべく候。ゆるゆるだきやい候て、物かたり申すべく候」という書簡をわずか6日間で届けている。関白の威光たるや恐るべしである。

 さらに石碑には「江戸時代には、ここは唐津と名護屋を結ぶ名護屋街道となり、旅の安全を念ずる庚申塚(こうしんづか)が建てられた。この塚は男女のシンボルをその御神体としており、それを再現したもの」とある。

 いわゆる道祖神(賽(さえ)の神などとも言う)で、路傍の神として、全国の集落の境や村内と村外の境界などに祭られる石碑や石像のことであり、中には男女和合を象徴する形状のものもみられる。

 この道祖神と太閤道一里塚との関係は一見ないようだが、この場所が「佐志坂峠とて殊(こと)の外急なる坂候」にあるということを考えれば、ここは結界の場所だったのかもしれない。

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