市武代官所があった地域を描いた三根郡下村郷図。領地の規模が異なる家臣が混在していた(1802年、佐賀県立図書館所蔵)

収穫期を迎えた麦畑。農業は江戸期も佐賀の基盤産業だった=三養基郡みやき町市武

■秩序立て直し、基盤固め

 黄金に色づいた麦の穂が風に揺れていた。麦秋を迎え、刈り取りが進む三養基郡みやき町市武地区。この地には江戸時代、佐賀藩直轄の農地を管理する代官所があった。藩の命運を左右しかねない出来高に気をもむ現場があった。

 鍋島直正が佐賀藩主に就任した天保期、天災や稲作の不良で農村は疲弊していた。藩は、武雄領主の鍋島茂義がけん引する形で西洋式砲術を導入しようとしていたが、新たな技術の獲得や軍備の拡充には多額の資金が欠かせない。収入基盤である農村の安定が、藩政の重要課題になっていた。

 収入の安定は、容易なことではない。くだんの市武代官所の代官中嶋和兵衛が天保12(1841)年、藩に提出した文書にはこうした趣旨の記述がある。

 「藩境で、家臣の領地が入り交じる地域でもあり、風紀が乱れている」

 鍋島家が龍造寺家から権力を継承した江戸初期に実施された領地の再分配の名残で、代官所があった三根郡には領地の規模が異なる家臣が混在していた。佐賀藩では家臣に土地の支配権を与える仕組みが幕末まで続き、農村部に武士階級の者が数多く暮らしていた。

 そうした中、農民の間では、貧しい者と富める者との二極化が進んでいた。文政11(1828)年の子年(ねのとし)の大風など天災の影響も後を引き、農地の質入れや売却が増加した。小作人が増える一方で、土地を大規模に集約する地主が現れた。

 こうして、さまざまな身分や境遇が入り交じれば、一律的な統治は困難になる。貧富の差は広がり、風紀は乱れがちだっただろう。

 直正は藩主就任2年目の天保2(1831)年、困窮する直轄地の農民に救済金を支払うに当たり、施政方針を示す。「農業が藩政の根本」と強調し、3年後には農村での商人の活動を制限する「農商分離」に着手した。地主らを相手にした商取引が活発化する中、さらに商人が入り込むと農民のぜいたくにつながり、生産力が落ちると考えた。

 天保13(1842)年には農政機構を改革し、農村の実情を知る代官経験者らを藩政の中枢に登用。農民の負担を軽減するため小作料を10年間免除する「加地子(かじし)猶予令」を全ての直轄地を対象に実施した。猶予令は2度行い、藩が農地をいったん取り上げて耕作する農民に重点的に配分する制度も設けた。

 加地子猶予によって地主たちは打撃を受けることになったが、歴史学者の藤野保さんは著書『佐賀藩』でこの政策を評価する。「地主制の発展が阻止されるとともに、小作貧農層の動揺と階級分化が防止された」

 佐賀大学地域学歴史文化研究センター准教授の伊藤昭弘さん(45)の見方は異なり、身分による秩序の立て直しが重視されたとみている。「直正は、領民がそれぞれの身分に沿った行いをすべきだという理想を持っていた」と指摘する。

 象徴的な出来事がある。天保6(1835)年、直正の別荘「水ケ江御茶屋」の建設を巡り、農民たちが手伝いを願い出たときのことだ。直正は「ありがたい話だ」と感謝しつつ、「農業専要の時節」を理由に、農民の本分に専念するよう伝え、断っている。

 弘化元(1844)年には、さまざまな身分の者が城下や農村に雑居している問題の対策にも着手した直正。全領民の戸籍調査も実施しており、秩序を正すことで藩政の基盤を固めようとしたのだろう。

 混沌(こんとん)とする時代、引き締めの側面もはらむ一連の政策は、藩に安定的な収入をもたらし、年貢収納高は10万石台で推移していった。

■風紀の乱れ、佐賀城下でも

 江戸後期は商品経済が農村にも浸透して貧富の差が広がり、困窮した人が糧を求めて都市部に流入した。佐賀城下ではばくちなどの悪事が後を絶たず、藩は風紀の改善に乗り出した。

 佐賀城下は、武家地の「小路」と町人が暮らす「町」に分かれていたが、どちらの地域でも「廻(まわ)り方」と呼ばれる巡視を実施した。天保13(1842)年、「なるだけ穏便に申し諭(さとす)」ように鍋島直正が指示を出している。「不行儀」の者を見つけ次第、現場の判断で対応していたが、後にこれを改め、担当者が役所に報告して対応を協議する手順を踏むようにした。

 徴古館主任学芸員の富田紘次さん(36)は、権威で押さえつける表面的な対策ではなく、直正の意思を浸透させて風紀を正そうとしたとみる。「行政的な手間をかけてでも情報を集め、役所ぐるみで丁寧に取り組もうとした姿勢が見て取れる」と分析する。

=年表=

1828(文政11) 子年の大風

1831(天保2)  佐賀藩主鍋島直正が直轄地の農民に救済金支給

1834(天保5)  農商分離政策に着手

1842(天保13) 代官経験者らを藩政中枢に登用 

           第1次加地子猶予令

1851(嘉永4)  第2次加地子猶予令

 ■次回は、佐賀藩の有志が創設した政治結社「義祭同盟」を取り上げます。

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