プチャーチンが乗船していたロシア軍艦「パルラダ号」を描いた「白帆注進外国船出入注進」絵図。マストの最上部に「おろしや国」と日本語で掲げ、敵対心がないことを示していたという(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

ペリー来航時の佐賀藩の対応などが記述されている池田半九郎の日記(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

長崎警備の責任者の一人だった佐賀藩士伊東次兵衛の日記。ロシア艦隊警備の際、藩主の鍋島直正が酒を差し入れたことなどがつづられている(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

■脅威続々、長崎警備に緊張

 佐賀藩士の日記から、江戸の混乱ぶりが伝わってきた。

 <亜米利加(あめりか)船四艘(そう)、浦賀へ渡来、同所乗り入れ江戸近海本牧辺り乗り廻(まわ)り候(そうろう)につき、諸大名へ所々固めなど仰せ付けられ、江都(こうと)大いに相騒ぎ候>

 嘉永6(1853)年6月上旬に米国海軍提督のペリーが軍艦で浦賀(神奈川県横須賀市)に来航して2週間余り。佐賀で状況を聞き及んだ長崎警備の責任者の一人、池田半九郎はつづる。<蒸気仕掛けにて乗り走り、至って迅速>な黒船。「いつ長崎へ差し回されるか分からない」と考え、長崎の台場で備えるため急いで佐賀を後にしている。

 灯火油や潤滑油として鯨油の需要が増していた米国は、捕鯨船の補給地を確保するため、日本の開国を狙っていた。ペリーが長崎でなく江戸近辺を目指したのは、大型軍艦で江戸城を威圧することで、幕府の譲歩を最大限に引き出す狙いがあったとみられている。

 黒船の来航は幕府を慌てさせた。佐賀藩の家老鍋島夏雲の日記には、幕府が佐賀藩に鉄製大砲200門を注文したことが記され、急きょ海防態勢を整えようとした様子がうかがえる。

 江戸の備えは実際、心もとなかった。浦賀で黒船を見てきた佐賀藩士福地寿兵衛は藩主鍋島直正に報告している。「黒船の船員約400人が小型船13隻に分乗して上陸したのに対し、日本側の人員は与力や同心が60~70人ほどしかおらず、甚だ手薄に見えた」

 直正の言動を記録した「直正公御年譜地取」によると、直正は黒船来航を<国家の御一大事>と深刻に受け止めている。外国との通商を「許容すべきでない」と考え、外国船を「断然打ち払うべき」と幕府に進言している。

 鍋島報效会徴古館主任学芸員の富田紘次さん(36)は「直正が西洋技術導入に熱心だったのはあくまで外国の脅威に備えるため。考え方は一貫して攘夷だった」とみている。その上で「長崎警備の役目上、アヘン戦争後の不平等条約など欧米の横暴さを知っていたから開国に反対した」と推測する。

 ペリーは米大統領の親書を幕府に渡し、開国の要求に対する返答を1年後に得る旨を告げて、長崎に回航することなく去った。長崎に詰めていた池田はこれを受けて佐賀城下に戻ったが、その8日後の7月18日、新たな脅威が長崎に出現する。プチャーチンが率いるロシア艦隊だ。

 プチャーチンもペリーと同様、開国を求めて長崎に来航した。佐賀藩は直ちに長崎警備担当の伊東次兵衛らを派遣。英軍艦フェートン号に自由に立ち回られた苦い歴史が脳裏をかすめたのか、直正は<必ず手抜かりの議これ無きよう>と送り出した。

 アヘン戦争の後、英国が清への影響力を強めていた。ロシアはこれに対抗し、極東地域における存在感を増すために日本との通商条約締結を目指していた。

 武力を前面に出して開国を迫ったペリーと打って変わって、プチャーチンは友好的な態度で交渉に臨んだ。幕府に好印象を与え、交渉を円滑に進める思惑もあったのだろう。旗艦パルラダ号に佐賀藩の視察団も受け入れている。

 それでも不測の事態に備えて、佐賀藩による監視は冬も続いた。長崎に出入りしていたオランダ帆船の場合、風の関係で初夏に来航して晩秋には出帆していたため、年越しの警備は初めての経験だった。年末には直正が長崎に入り、1千人規模の藩士に酒を差し入れ、士気を高めた。

 ロシア艦隊は上海に回航した約1カ月間を除けば、長崎に1月まで半年ほどとどまった。「日本が他国と通商条約を締結した場合、ロシアにも同一条件の待遇を与える」という合意を幕府から引き出すと、ようやく引き揚げた。

 警備で緊張を強いられる状況は去ったが、その後のロシアの動きは、佐賀藩の関心を蝦夷(えぞ)地(北海道)に向かわせることになる。

■ペリーとプチャーチン

 ペリーは米国の東インド艦隊司令長官を務めていたころに大統領の親書を携えて来日し、開国を促した。

 軍事力を見せつけて高圧的に交渉した方が有効だと考え、日本に向かう際には大型蒸気軍艦の必要性を訴えた。初来日の翌年に日米和親条約の調印にこぎつけ、晩年は中国や日本に遠征した経験を著している。

 ペリーと同時期に、開国を求めて長崎に来航したプチャーチンはロシア帝国海軍軍人。幕府の外国奉行川路聖謨(かわじとしあきら)は、プチャーチンが高圧的なペリーと異なり、紳士的に交渉を進める態度に感心したという。

 日露和親条約締結を実現したプチャーチンは、その功績により伯爵に叙され、海軍大将や元帥を歴任。後に教育大臣も務めるなど政治家としても活動した。

=年表=

1850(嘉永3)     外国船の侵入に備えるため長崎港外の伊王島、神ノ島に台場を建設

1853(嘉永6)     ペリーとプチャーチンが日本の開国を求めて来航

1854(嘉永7、安政元) 日米和親条約、日露和親条約を締結

1858(安政5)     日米修好通商条約など安政5カ国条約が結ばれ、鎖国体制が完全に終わる

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