新明治佐賀炭鉱の閉山式で、炭鉱の山の神に祈りをささげる人たち(多久市教育委員会提供)

■近代化支えた営み記憶の中に

 1969(昭和44)年、明治佐賀炭鉱(多久市北多久町)が閉山しました。

 「そんな馬鹿(ばか)な、たとえ太陽が西から昇り、石が流れて木の葉が沈むようなことがあったとしても、それはあり得るべきことではなかった」。当時、採炭夫として勤めていた詩人寂(せき)(関)寥太郎(りょうたろう)は、閉山の衝撃をそう記しています。故郷を離れて多久を第二の故郷と定め、炭鉱での過酷な労働に身を置き暮らしていた人々にとって、閉山はまさに天地がひっくり返ったような出来事でした。

 しかし1000人近い従業員を抱えた炭鉱が閉山すると、失業者対策など市への影響があまりに大きくなってしまいます。このため「ゆるやかな閉山」と称して、従業員を3分の1まで減らし、地下で坑道がつながっていた北方町(現武雄市)の西杵炭鉱と合併して「新明治佐賀・西杵炭鉱会社」が設立されました。そうして残炭の採掘を行っていましたが、72(昭和47)年11月、県内最後の炭鉱となっていた新明治佐賀・西杵炭鉱は閉山し、年が明けて1月24日に閉山式が行われました。

 現在は、市内各所で威容を誇ったボタ山の大半が姿を消し、日本の近代化を支えた石炭産業と、隆盛をきわめた炭鉱での営みは、わずかな遺構と人々の記憶の中にかろうじて留まっているのみとなっています。(多久市郷土資料館 志佐喜栄)

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