ふすまの下張りとして全面に張られた答辞の原稿。左は見つけた坂田あや子さん

旧制唐津中学校時代の山﨑元幹(中央校長の右)=満鉄会発行『滿鐵最後の〓裁 山﨑元幹』から

■13歳、国家担う決意強く

 旧制唐津中学校卒業で「満鉄」最後の総裁、山崎元幹(もとき)(1889~1971年)が尋常高等小学校の卒業式で読み上げた答辞の原稿が見つかった。推敲(すいこう)を重ねたとみられ、その数5枚。13歳ながら端正な筆運びで「明治聖代の臣民」としての決意をつづる。研究者は「国家の礎を担う強い自覚が表出し、教育史資料としても重要」と注目する。

 答辞は明治36(1903)年3月26日の日付で「福吉尋常高等小学校第一回卒業生総代 山崎元幹」と記す。山崎は福岡県怡土(いと)郡福吉村(現在の糸島市)生まれで、原稿は生家のふすまの下張りに用いられていた。生家の工事で搬出され、5月末、骨董(こっとう)市に出ているのを唐津市の市民リポーターを務める坂田あや子さん(58)が見つけた。

 本文は「今茲(いまここ)ニ」で始まり、「熟(つらつら)回顧スルニ生等ノ初メテ之ノ校ニ入学スルヤ只(ただ)ニ遊戯ノミ事トスル頑児タルニ過ギザリキ然(しか)ルニ愛撫薫陶幾タビカ至ラザルトコロナク朝ニ学ビ夕ニ語リ…」と、入学時、童子のようだった自分たちを4年間の学業を通じて成長させてくれた恩師らに感謝する。

 さらに「上ハ明治聖代ノ臣民タルニ背(そむ)カズ下ハ諸先生ノ訓戒ニ違(たが)ハズ遵守スルコトヲ之レ計ルノミ」とし、国家が日露戦争へと傾く中での強い決意を示す。

 山崎はその後、遠縁にあたる厳木村の医師宅に寄宿し旧制唐津中(現在の唐津東高)に入学。海軍軍人を志し兵学校を受験したが、眼の件で不合格となり、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1916(大正5)年、創立10周年の満鉄に入社。1945(昭和20)年5月、第17代総裁に就任し、終戦処理にあたった。

 山崎の業績は唐津ではあまり知られていない。糸島市内での骨董市で偶然、原稿を見つけた坂田さんは「今の中学1年生ぐらいながら達筆で、気になって買い受けた」と言い「調べたら唐津に縁がある人物で、しかも満鉄総裁になった人と分かり驚いた」と話す。

 満鉄と山崎の業績に詳しい国文学研究資料館(東京都)の加藤聖文准教授(50)は「国家や公共を強く意識した内容で、後の大正時代の個人主義とは明らかに違う強烈な国民意識を感じる」と分析。「尋常小学校などの答辞自体は珍しいものではないため逆に残っていないようで、山崎個人の人格形成だけでなく、明治期の教育を知る上で貴重」と語る。

 ■満鉄(南満州鉄道) 日露戦争によって日本が権益を獲得した満州(中国東北部)支配の中核となった国策会社。鉄道、運輸、港湾施設、炭鉱の経営など事業経営と行政機関を併せ持った。満鉄会が1973年発行した800ページに及ぶ『滿鐵最後の〓裁 山崎元幹』は山崎について「明敏、周到にして剛直、一貫してその名のとおり満鉄のバックボーンであった」と記す。

〓は総の旧字体

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