犬丸家に残る蝋皿。中に白蝋を入れて固める道具で、中央に屋号が記されている

嘉永5年から明治にかけてつづられた犬丸家の「嘉永五年日記」を保管している犬丸則子さん=鳥栖市江島町

犬丸家の庭にある「江島町犬丸家記念碑」。碑文には、幕末の櫨蝋産業の様子が垣間見える記述がある=鳥栖市江島町

■櫨蝋藩財政を下支え

 鳥栖市江島町の田園地帯を望む丘陵地にある旧家「犬丸家」。広い敷地の一角に、明治時代に建立された記念碑がある。ここは幕末期、蝋燭(ろうそく)などの原料を櫨(はぜ)の木から生産するのを取り仕切っていた「御用蝋屋(ろうや)」の一つ。往時をしのばせる碑文には、こうした文意の記述が刻まれている。

 <安政3(1856)年に藩の命で白蝋(はくろう)を納めた。15万斤(90トン)を輸出し、利益をオランダ製の船や軍用品の交易に充てた>

 「白蝋」は、櫨の実を蒸して搾り、抽出した成分を天日にさらし、漂白して固めたもの。蝋燭や化粧品の原料として幕末には海外にも輸出された。1867(慶応3)年の第2回パリ万国博覧会では佐賀藩が領内から集めて出品し、好評だった。

 鳥栖市史によると、佐賀藩領で櫨栽培が本格化したのは幕末より前の享保・元文年間(1716~41年)。農家の副業として栽培が奨励されたが、現在の鳥栖・三神地域に当たる一帯では反応が鈍かった。鳥栖郷土研究会会長の藤瀬禎博さん(69)は「このころの櫨の品種は実が収穫できる年と、できない年があった。収入が安定しないから農家が敬遠した」と説明する。

 一大産地に様変わりしていくのは天保年間(1830~44年)。低木で実が多い改良品種「伊吉(いき)櫨」が導入されてからだ。幕末に犬丸家の当主だった犬丸市之助が私財を投じ、筑後地方から苗4万5千本を購入し、農家に配って栽培方法を伝えたとされる。ひ孫の妻、則子さん(86)は「今はなくなったけれど、多くの櫨の木が植えられていたと聞いています」としのぶ。

 佐賀藩の櫨蝋産業は嘉永2(1849)年から藩が統制し、4年後には長崎の貿易機関「長崎会所」を通して輸出も始まった。品質を落とす異物の混入を防ぐように指導があり、増産も進んだ。安政4(1857)年には従来の37万本の櫨に加え、25万本が新たに植樹されたという藩の記録が残る。

 統制は緩やかな側面もあった。「蝋屋が条件のいい販売先を自由に選び、利益を得ていた」。幕末の櫨蝋産業に詳しい福岡大学人文学部の梶原良則教授(57)はこうみている。実際、生産高の推移を記録した「晒蝋煮込控帳(さらしろうにこみひかえちょう)」(佐賀県立図書館蔵)を読むと、養父郡平田村(現在の鳥栖市平田町)の蝋屋は安政のある年、生産した半分近くを藩に販売する一方、江見(三養基郡みやき町)や下関(山口県)の民間業者にも出荷している。

 この状況は万延元(1860)年に一変する。三重津海軍所の開設関連費用を支払うために設置された「器械御取入方(おとりいれかた)(器械方)」が、櫨蝋の生産や販売を管理下に置く専売制を取った。

 器械方は早津江や牛津、伊万里など櫨産地9カ所に、地域を取り仕切る「御用蝋屋」を配置。その下に、生産に従事する「下蝋屋」を20~30人規模で配した。海外向けの白蝋に限定して生産させ、藩内で消費する蝋製品さえ自由な取引を禁じ、必要に応じて藩が決めた金額で配給する体制を取った。

 ここまで厳重に管理したのは、海外から購入した機械類の代金の支払いに櫨蝋が充てられたためだ。梶原教授は「西洋との取引で、現金の代わりに白蝋で支払うことができた。藩の買い上げ金額は民間相場の75%と決まっていたけれど、ひどいときは7割を切ることもあった」と説明する。

 犬丸家に残る日記には、取引の様子や生産現場の苦労がにじむ。「藩が代金を支払わない。何とかしてほしい」「(櫨蝋を入れる)箱の作り直しを命じられたので、経費が大変だ」

 万博の華やかな舞台をじかに見ることもなく、幕末佐賀藩の財政を地道に下支えしていた櫨蝋産業の従事者たち。梶原教授は、ねぎらうようにつぶやいた。「蝋屋一人一人の努力も、その後の明治維新を成し遂げた原動力の一つになったと言ってもいい」

   *        * 

■次回は、パリ万博に出品された茶にまつわるエピソードを、産地の嬉野の様子とともに取り上げます。

=異なる販売環境=

 幕末期、佐賀藩の主要な産品だった櫨蝋。隣接する対馬藩田代領(現在の鳥栖市東部、三養基郡基山町)でも栽培されていたが、生産者を取り巻く環境は大きく異なっていた。佐賀藩が強力な専売制を敷いたのに対し、田代領では専売制が短期間で破綻し、生産や流通が自由化された。

 対馬藩は1859(安政6)年に専売制を導入した。相場の6割で買い上げようとしたが、あまりの低価格に生産者が反発し、売り渋りや抜け売り(藩以外への違法販売)が横行した。このため藩は違反者を多数逮捕。この影響で農作業が滞ったこともあり、領民の不満が蓄積し、翌年には専売制が廃止された。

 藤瀬さんは「田代は交通の要衝で他国への抜け売りが容易だった」と指摘する。飛び領だけに本藩の目が届きにくい上、本藩からの派遣ではなく領内出身の役人が実務を握っていたこともあり、「専売制の早期廃止につながった」とみる。

1716~41(享保・元文年間) 佐賀藩領内で櫨栽培が本格化

1853(嘉永6)        長崎会所を通じ櫨蝋の海外輸出始まる

1857(安政4)        藩の命で櫨25万本植樹

1860(万延元)        器械御取入方が専売制を導入

1867(慶応3)        第2回パリ万国博覧会

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