誓恩師が修行僧として托鉢に回った園部、小松の集落=基山町園部

 島原に生まれ、島原の和光院で得度し、久留米・御井寺での修行を経て大興善寺に入山した玉岡誓恩師は、寺の再興に青春の情熱を傾けた。

 誓恩師の理解者で相談相手になったのは園部村の鹿毛良鼎氏(1855~1923年)と、良鼎氏に紹介された野田昌隆氏(不詳~1887年)だった。

 鹿毛家は累代、医をもって業とする天台の信者で草野観音が大興善寺に分霊されたとき当地に同行した檀家。鹿毛家累代の墓もかつては大興善寺境内にあった。良鼎氏は京都医学校に進み卒業後は父祖の医業を継ぐ。生まれつき温厚な性格で西洋医の先達として人望を集め、推されて郡医師会長、県議会議員を務めた。

 他方、野田家は基肄郡上郷(きのこおりかみごう)(現在の基山町と鳥栖市の一部を合わせた地域)の大庄屋、及び園部上村(現在の基山町園部の北西部)の庄屋で、野田昌隆氏は幼児期より学に秀で、大勢の徒弟たちに学問と剣の道を教えた。通称を倭一郎といい、基山を号とした。教えを請うた者は千余人を数えたといわれる。

 鹿毛良鼎氏、野田昌隆氏に恵まれ、誓恩師は仏道に精進した。修行僧として勤行と托鉢(たくはつ)に精励する師の姿に、村人はもとより檀信徒の信頼も次第に深まっていった。

(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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